Les Passe Vivant |
Henri de Regnier
アンリ・ド・レニエHenri de Regnier(1864-1936)の『生きている過去Les Passe Vivant』を読んだ。レニエには以前から興味を持っていたのだが、日々の宿題に追われて、なかなか手に取るまでに至らなかった作品である。作者はフランスの旧家の生まれで、大学入学資格試験を受験した1883年頃から文学に目覚めるが、両親の懇願には抵抗しきれず法律を学んだが、結局文学の道を選んだ。レニエの生きた時代は、大革命以後に成り上がった新興階級ブルジョアジーの世紀であり、彼は進歩思想の欺瞞を強く感じていたらしい。 最初の詩集は21歳の若さで出版されており、レニエは流行作家だったようで、20冊を越える作品を残しているが、日本にはほとんど知られていないと言えるのではないだろうか。その多数の作品の中でも、1905年に発表された『生きている過去』は、レニエの資質が最も見事に開花した一編であると言われている。 物語は、18世紀に生きた啓蒙思想家ヴォルテールのブロンズ像の解説から始まる。 主人公である独身貴族青年ジャンには、同じ名前を持った曾祖父があったが、その爺ジャンは、従兄モーリスの妻アントワネットの曾祖母、やはり同じ名前を持つ婆アントワネットと愛し合っていた。その二人は共に既婚であったので、性的関係があったなら、所謂不倫と呼ばれる関係だったことを否定できない。しかしながら、18世紀に生きた彼らは、互いに愛し合いながらも、一度の抱擁を交しただけで、爺ジャンはイタリアの戦場で死亡してしまう。そのことを、19世紀末から20世紀初頭にかけて生きる二人の曾孫たちは、婆アントワネットが残した手紙で知る。 アントワネットは現実的だった。彼女はモーリスに求婚されたのでモーリスと結婚した。誇り高い貴族ではあるものの、慢性的になりつつある経済的な危機に見舞われている家族が、将来的に生活の安定を得ることは、彼女の結婚を決めるにあたっての最大の条件だった。彼女に対する好色な興味を隠さないモーリスの下品さが、嫌悪を覚えるほどではなかったことが、アントワネットとモーリスの双方に幸いしたと言えよう。アントワネットは、確かにモーリスを彼の財力込みで愛していた。 モーリスは19世紀が生んだブルジョアジーを代表するような青年実業家だった。彼に思想はない。しかしながら、彼の思考には極めて一貫した功利主義とも言える合理主義が常にあった。モーリスは好みの女を得るために、時間と金を使うことに躊躇はなかったが、アントワネットの場合は結婚する必要があった。だから結婚したのである。モーリスの、手段を目的に合わせて正確に選択する早業には脱帽するしかない。 その夏、モーリス一家、モーリス当人と妻アントワネットと彼女の両親は、パリを離れて、郊外の別荘で避暑をすることになった。その近くに優美な邸宅を持つジャンは、モーリス宅に入り浸って過ごす。モーリスが留守の間、刺繍をしたり、読書をしたりして時間を過ごすアントワネットの傍らで、無為な時間を過ごすのである。貴族的…。ある日、ジャンとアントワネットは、件の婆アントワネットの手紙によって、成就されることのなかった恋を知る。そして、ジャンは夢想家だった。 ジャンは、頻繁に同じ夢を見る。仰向けに横たわっている頭上に、青空が広がっているという夢だった。自身の肉体が自身の肉体ではないという奇妙な感覚に捕われ、身動きできない恐怖に、ジャンは目覚める。これは、爺ジャンの死の瞬間を擬似体験しているのかもしれない。手紙を読んで、自分たちの曾祖父母が愛し合っていたと知ったジャンは、奇妙な妄想に捕らえられる。つまり、曾祖父母が中断された彼らの恋を、自分たちジャンとアントワネットが、成就することを望んでいると思い込む。そうしなければならないと、そう仕向けられていると思い込むのである。 ジャンとアントワネットが散歩中、お約束の突然の雨。ジャンは自身の邸宅の小部屋に、アントワネットを誘う。そこは、爺ジャンと婆アントワネットが、一度だけの抱擁を交した部屋だった。その直後、爺ジャンはイタリアの戦場へと旅立ち、戦死することになるわけだな。曾祖父母たちの恋を知って以来、ジャンはこの部屋で件の手紙を読んでは、前述のような妄想に耽っていた。事ここに至っては、やるしかない。アントワネットの前に跪いたジャンは、自分の中に蘇った爺ジャンが、どれほど婆アントワネットを欲しているかを語る。彼らは、私たちの中に、確かに生きているんです。そして彼らはスケベに及んだ。 アントワネットは女だった。これほど女の感情の動きを見事に表現した小説を、私は知らない。スケベの後、アントワネットは、ジャンを愛していると思う。愛し合っているのは、現実に生きている自分たちであって、曾祖父母はスケベのきっかけを与えてくれたに過ぎないというわけだ。しかしながら、ジャンは、過去の二人が現在の二人を利用して、現在の二人の身体を使って、自分たちが果たせなかった欲求を満たしたのだと思うのである。ジャンは深く傷ついていた。鏡に映った自分の顔に、爺ジャンを見たジャンは、肘掛け椅子を投げつける。鏡はこなごなに砕けた。 ジャンとアントワネットの感情のずれは象徴的である。ジャンは自身の優美な邸宅を維持するために、富豪のアメリカ娘と結婚する必要があったが、その欺瞞を受け入れることができなかった。そして、自身が過去の曾祖父母の恋愛をなぞるようにアントワネットとスケベしてしまったことも、受け入れることができず苦悩するのである。その時、その時に応じて、自分の感情を極めて合理的に融通してきたアントワネットとは、隔絶の感がある。 その夜、ジャンの優美な邸宅が炎上する。物語の中では、明確な描写はないが、ジャンが放火したことが示唆される。ジャンは行方不明となり、爺ジャンが戦死したと伝えられる地で、拳銃自殺を果す。曾祖父母の怨念から逃れられないと感じたジャンは、自らの自我を全うするために、死を選んだのである。合掌。 物語は、その後のアントワネットを描いていない。アントワネットは、時折、モーリスが帰宅しない夜などに、一度だけの情事を思い出したかもしれない。私は、アントワネットが自分一人だけの秘密の思い出を持っていることが気に入らない。しかしながら、アントワネットは生き続けなければならない。彼女は、その生涯を、秘密の思い出と共に幸せに過ごしたことだろうと思う。気に入らない…。 冒頭のヴォルテールで既にギャラクティカ・マグナム。何もしないジャンにギャラクティカ・ファントム。スケベに満足しなかったジャンにスコルピオン・クラッシュ。拳銃自殺したジャンにノック・アウト。だからと言って、ジャンが私好みの青年だというわけではないのだけれど、感傷的なジャンは可愛いかも…。ロマンティックな一時を過ごしたい人に、お薦めの一冊でありました。 ○『生きている過去』アンリ・ド・レニエ/岩波文庫/\700
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