スターリングラード
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この映画の邦題は『スターリングラード』であるが、オリジナルのタイトルは『Enemy at the Gates』なんだから、『眼下の敵』のような映画だと推察できる。しかしながら、邦題を例えば『狙撃手』だとか、そういうタイトルにしなかった理由が、この映画を見て分かった気がした。これから映画を見るつもりで、尚且つ先入観なしに見たいと思っている人は、先を読まない方が良いかもしれない。物語は次のようなものだった。

ジュード・ロウ演じるソヴィエト軍新兵ヴァシリは、その射撃の才能をジョセフ・ファインズ演じる政治将校ダニロフに見出され、戦意高揚を図る当局によって、英雄に仕立て上げられる。ヴァシリが射殺したナチス将校の数が、連日新聞・ラジオで報道されたのである。将校ばかりを狙って射撃を続けるヴァシリは、ダニロフと共に休憩のために立ち寄った民家で、レジスタンスの一員であるターニャに出会う。ドイツ語を学んだターニャを気に入ったインテリ政治将校ダニロフは、自分のいる司令部に彼女を転属させるが、彼女はヴァシリの射撃チームに参加することを選択する。

エド・ハリス演じるドイツ国防軍の射撃学校の教師でもある高級将校ケーニッヒ少佐は、ヴァシリ殺害を引き受けてスターリングラードに赴任してきた。彼の息子はヴァシリに射殺されたナチスの将校の一人だった。ソヴィエト軍総攻撃の日、ターニャは退却途中に爆撃で重傷を負う。ダニロフはヴァシリにターニャが死亡したことを伝える。公私共に生きる指針を失ったダニロフは、ヴァシリにとって最も皮肉な死を選ぶ。そして、ヴァシリはケーニッヒ少佐を殺害し、作戦終了後、訪れた病院でターニャと再会を果す。一旦、幕。

そして、この映画を、私は以下のように見た。

映画の冒頭で、ヴァシリは民間人に混じって、スターリングラードに向かう兵員輸送列車の中で、狭い空間で読書する可愛い女の子に出会う。一瞬視線が交差したが、彼女は直ぐに視線を本に戻し、再び読書に没頭してしまった。スターリングラードで民間人の家で出会ったレジスタンスの若い女兵士は、ヴァシリに列車で出会った少女を想起させた。新聞でヴァシリを見知っていた彼女は、ターニャと名乗った。ヴァシリは、列車で出会った少女も、ターニャと呼ぶことにする。

モスクワ大学で高等教育を受けたターニャは、ドイツ語が堪能だった。インテリ政治将校だったダニロフは、彼女を気に入り、司令部に転属させる。司令部でドイツ語の文書や無電の翻訳をしていたターニャは、ナチスに殺害された民間人のリストの中に、自分の両親の名前を発見する。ターニャは、ナチス将校を狙撃するチームに参加させてくれるよう、ヴァシリに頼む。

ヴァシリは、ターニャの申し出を受け入れる気はなかったが、彼女の両親の話を聞くと、彼女にはナチス将校を殺害する理由があると判断し、ライフルを彼女に手渡す。ターニャはヴァシリの同志となった。この時点でターニャは、ヴァシリによって初めてアイデンティティを認識されるに至るのである。

ヴァシリとターニャはナチス将校を殺し続けるが、ヴァシリは次第に自分自身と新聞で報道される英雄ヴァシリとの間に、溝を感じ始めていた。しかしながら、ダニロフはヴァシリの気持ちを関知しない。ダニロフはヴァシリを飼い犬のように愛し、ヴァシリはダニロフを自己の飼い主であるかのように、絶対的な信頼を以って愛する。ヴァシリはダニロフが望むように、ナチス将校の射殺を続ける。それ以外に、ダニロフの感心を自身に止め続ける方法はなかった。

或る夜、ヴァシリが兵士たちと雑魚寝をしていると、女が彼の毛布に潜り込んで、彼の股間に手を伸ばした。二人は一気にスケベに突入する。喘ぎさえ漏らさない、かなり無理な性交だったが、とりあえずヴァシリは射精を終えた。落ち着きを取り戻したヴァシリは、スケベの相手が、終った後も自分の毛布の中に実存していることに少し驚く。ヴァシリにとっては、自慰と大して変わらない行為だったわけだ。しかしながら、スケベの相手は、確かにヴァシリの腕の中に実存した。ヴァシリは彼女もまた、ターニャと呼ぶことにする。

ヴァシリはスターリングラードに向かう列車の中で出合った少女のことを、腕の中にいるターニャに話す。同志である狙撃手と、スケベの相手と、列車の少女は、ヴァシリの中でターニャという総称で一括される、ある種の偶像めいた存在となった。ヴァシリは列車の少女が同志である狙撃手と同一人物ではなかったかと、スケベの相手ターニャに尋ねる。しかしながら、ターニャはそれに答えない。何故なら、彼女は列車に乗っていなかったからだ。

その頃、ケーニッヒ少佐が、ヴァシリを殺害することだけを目的に、スターリングラードに到着する。ターニャの隣人の少年サーシャは、ターニャからドイツ語を習い、ドイツ軍人の雑用を引き受けることで、ヴァシリらソヴィエト軍兵士に情報を提供していた。サーシャはケーニッヒ少佐に取り入ることに成功するが、少佐はサーシャを使ってヴァシリを巧みに誘導する。

少佐はサーシャをクレーンに吊るした。これを見たターニャは、思わず飛び出そうとするが、ヴァシリはこれを必死に止める。サーシャを助けようとするターニャを助けようとするヴァシリを、少佐が狙っていることを知っているからだ。サーシャの死によって、ターニャは狙撃手であることを忘れ、ヴァシリの同志であることから逃げる。

ダニロフはターニャを愛していた。戦場で出合った、ゲーテを解する唯一の女性を、インテリ政治将校が愛さないわけがない。戦争が終った後も愛し続けるかどうかは定かではないが、ダニロフは恋愛というものはそういうもんだと思っている。しかしながら、ターニャはヴァシリを愛してしまった。ターニャにとっては、どういう状況であっても、恋愛は恋愛であって、恋愛以外の何物でもない。彼女はヴァシリと一緒に、存在するかどうかも分からない、余生を過ごすつもりだったが、ヴァシリを理解したからそう思ったわけではない。ダニロフよりましだと思っただけだ。

ターニャの関心がヴァシリにあることを決定的に知った時、ダニロフは、ヴァシリが思想的に問題があることを告発する文書を、タイピストに口述タイプさせる。余りに感情的なダニロフに、タイピストは驚き不愉快になるものの、政治将校には逆らえない。ターニャを失った、ヴァシリに奪われた、飼い犬に手を噛まれた、そう思ったダニロフではあったが、発動が決定した、10人に1人も生き残ることが難しいだろうソヴィエト軍の総攻撃で、ターニャを見殺しにすることはできなかった。ダニロフは正しくエゴイストだった。

しかしながら、ダニロフがターニャを避難させる途上、彼女は爆撃で死亡する。即死だった。ダニロフは、公私共に生きる指針を失った。スターリングラードなんか、どうにでもなれ。勝手なことばかり言って、味方の兵士を殺し続けることに、最早何の意味も見出せない。おまけに、気に入っていた女は死んでしまった。もう何もかもが、面倒臭い。ダニロフは、少佐を狙撃するべく、総攻撃から離れて単独行動を許されているヴァシリのもとに向かう。

総攻撃だというのに、スターリングラードの片隅にある廃屋となったビルには、静寂があった。そこでライフルを構えるヴァシリは、少佐の位置を特定できずにいた。ダニロフは、ターニャの死をヴァシリに知らせると、最早生きる気力を失ったと、最期に飼い犬のように扱ってきたヴァシリに詫びるためと言うよりも、むしろヴァシリに最期の餌を与えるかのように、廃屋の窓に額を晒す。途端、少佐のライフルが火を吹いた。ダニロフは額を直撃され、即死する。

ヴァシリにとって、これは耐えがたい裏切りだった。ダニロフがヴァシリの狙撃手としての才能を見出し、ダニロフがヴァシリの生きる意味を、ヴァシリが戦う意味を与えてくれた。正式な教育を受けることもなく、地域社会とも言えないような狭い世界で生きてきたヴァシリにとって、自己の存在を初めて認識してくれたのがダニロフだった。

そのダニロフが、勝手に死んでしまった。少佐に狙撃されることによって、その位置を知らせるのを置き土産に、手切れ金を娼婦の顔目掛けて投げ付けるように、旅行に出かける前に飼い犬に餌を投げ与えるように、勝手に死んでしまったのである。ヴァシリの信頼を裏切ったとしか言い様がなかった。

信頼する者を失った悲しみ、信頼する者と友となり得なかった哀しみ、そして信頼を裏切られた怒り、ヴァシリの激情は、ケーニッヒ少佐へと向かう。ダニロフを撃ったことで、少佐の位置が判明した。ヴァシリは少佐を待伏せ、少佐との対面を果すが、双方言葉もないまま、至近距離から射殺する。

戦闘終了後、病院を訪れたヴァシリは、ターニャを探すが、病院関係者は彼女を知らない。諦めきれず、辺りを見回したヴァシリは、ベッドに横たわる若い女性を発見する。彼女の枕元に近寄ったヴァシリは、重傷を負ったらしい彼女を、ターニャと呼ぶことにした。初めまして。幕。

この映画に限らず、私の視点は、一般的な観客の視点とは大きく違っているだろうと思う。レイチェル・ワイズ演じるターニャは、あくまでも一人の女性であり、その時々にヴァシリの前に現れた別人であると考えるのは、実際、私くらいのもんだろうと思う。でもね、ヴァシリが純朴なロマンティシストだとしたら、偶然知ったターニャという名前を、出合った女性全ての総称にしてしまうくらいのことは、ありそうな話ではないだろか。

監督ジャン-ジャック・アノーは、私のような視点で見ることが可能なように、この映画を作ったのではないかと思う。観客がターニャに感情移入した場合、やはりヴァシリの前に現れた女性たちは、同一人物である必要がある。何故なら、観客が感情移入したヒロインは、理由の如何を問わず、愛されなければならないからだ。また、女性の観客を動員できない映画に、成功はない。絶対にない。

アノー監督はこのことを、極めて良く知っており、ターニャというヒロインに感情移入し易いように、映画を作った。しかしながら、物語上の不自然さを払拭するために、私のような視点でも、映画を観賞できる余地を残してくれたのではないだろうか。

また、『狙撃手』というような、ロマンチシズムとは無縁な邦題としなかったのも、女性の観客を逃さないためだろうし、日本公開におけるキャッチ・コピーも、「愛するターニャ、今日も僕は君のために、またひとり敵を撃つ」だったりしたわけだ。ヴァシリは、ターニャのためには、一人だって殺してはいないし、殺すつもりもないだろうと思う。ヴァシリは、ダニロフの期待に応えるために、狙撃を続けたのだ。

『スターリングラード』という邦題は、それなりに納得のいくタイトルだと思う。個人的には、『狙撃手』の方が、絶対見逃さないと思うのに充分なくらいには、ロマンティックだと思うけどね。

さて、最後に、これを書かなくてはいけない。ヴァシリは敵を殺して英雄になったが、同じ数の味方を殺せば大馬鹿者として、フルシチョフに拳銃を渡され、自殺を示唆されることになる。しかしながら、敵にせよ、味方にせよ、或は戦争という状況であったにせよ、倫理的には殺人は殺人なのだということを忘れずにいたいものだ。戦争自体は犯罪ではないという定義は、これを前提としないことには、戦争犯罪を処断できないというジレンマが作った方便に過ぎない。このことも、肝に銘じておきたいと思う。

どなたか、この映画を私のように見た人がいたら、ご連絡いただきたい。お友だちになりましょう。いないか…。残念。幕。(2001,4,16)

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