2000年5月、瀬戸内寂静の口語訳をベースに『源氏物語』が上演された。その余りの不出来な舞台に、危うく貧血を起こす程の衝撃に襲われたことは未だ記憶に新しい。今回の上演は、脚本も瀬戸内寂静が担当しており、演出面の改善も見られた。場面転換が多かったことは、昨年と変わりないが、その転換ぶりを無理なく受け入れることができたことに、我ながら驚いている。また、物語を解説する荘園の女たち、近隣の漁師たち、その他のエキストラ的登場人物の配置も納得できる構成となっている。 また、主要登場人物たちは前回と同じ配役で演じられているので、芝居に入り込むために、役者に慣れる時間は全く必要なかった。前回と同じく、光の君を新之助、紫の上を菊之助、三位の中将を辰之助が演じた。「平成の三之助」と呼ばれている彼らのこと、話題作りには欠かせない。しかしながら、昨年の『源氏物語』の公演における三之助は、見るべきものがなかったことも事実である。 ところが、歌舞伎座公式パンフレットの中では、どの記事も前回の公演が大ヒットを博し、三之助の評判も上々だったと書いている。これは解せない。歌舞伎ファンが、明らかに失敗だった昨年の『源氏物語』を上出来だったと評価しているなら、私は最早歌舞伎について語る言葉を持ち合わせていない。あれは、酷かった。だから、今回はマシに成っていて欲しい。でもあんまり期待するのはよそう…。5月19日土曜日は、そう思いつつ観劇に臨んだ。 昨年は大藪郁子脚色の新脚本による上演で、音楽を東儀秀樹が担当した。今回も録音された東儀秀樹の音楽が主要場面で流れたが、前回程違和感はなかった。慣れたのかもしれないと思うが、舞台そのものが悪くなかったことに関しては、偏に瀬戸内寂静の手腕であろうと思う。瀬戸内寂静には、これまで評価するべき材料を持ち合わせていなかったが、今回の『源氏物語』については、「大変良く出来ました」という判子を進呈したいと思う。 紫式部の『源氏物語』については、以前書いたことがあるので、そちらを参照いただきたい。この稿を書くにあたって改めて読んでみると、光の君は本当にどうしようもない奴だと思えてくる。何かと言うと、「これも前世の因縁かもしれません」なのである。光の君自身は、何の罪もないのに、前世の因縁で、あれこれ辛い思いをしなければならないのだと、考えているのだ。 今回上演された『須磨』『明石』は、光の君が26歳から28歳の時期の物語だ。紫の上は18歳から20歳。光の君は腹違いの兄にあたる朱雀帝の寵妃である朧月夜と密通を重ね、ついにこれがバレてド田舎の須磨で謹慎生活を送る破目に陥る。物語は、この不倫事件が光の君の政治的失脚を引き起こした直後から始まる。 朱雀帝の母弘徽殿が、この不倫事件には、朱雀帝に対する謀反の意図ありと告発するが、朧月夜と不倫関係を結ぶことが、どうして藤壺の生んだ東宮を即位させることに直結するのか理解に苦しむ。考えられるのは、光の君が朧月夜を殺し屋に仕立て、朱雀帝をスケベの最中に暗殺し、東宮の即位を早めるという陰謀だが、かなり無理がある。 この件に関して光の君が言及する時、「何も悪いことなどしてはいないのに、冤罪を被って、須磨なんて田舎にジジイみたいに隠遁してなきゃならんのは、きっと前世の罪業が自分に祟っているからに違いない」黙祷…。ということになる。光の君は、実は自分と父桐壺帝の后であった藤壺との間にできた子である東宮が、帝位に就くのを楽しみにしていたが、急ぐ必要があるとは思っていなかった。従って、光の君に朱雀帝に対する謀反の意図はないため、この件に関しては冤罪であるというのは正しい。しかしながら、兄朱雀帝の寵妃と不倫をしていたのは事実である。これは、どう考えても、「何も悪いことなどしていない」ことにはならない。 『須磨』『明石』の中で、光の君は終始冤罪を被った気の毒な貴公子の立場を崩さない。冤罪であることを主張するのであれば、光の君は、言わば兄嫁を奪った罰当たりな弟であることを認める必要があるのではないだろうか。光の君は須磨に旅発つ時、会えなくなるのを悲しむ手紙を朧月夜に送っている。それも、あの一件以来、冷たいよねなどと、手紙の文中、朧月夜を責めることまでしている。光の君は須磨からも、朧月夜に恋文を送っているが、これなど何が原因で須磨で謹慎する破目になったのかを、完全に忘れているとしか言い様がない。 須磨に三位の中将が見舞いに訪れた時、光の君は、その心情を吐露する。出家したい、死んでしまいたいと何度思ったことか知れない。しかしながら、都で光の君の帰京を待っている、数多の愛人たちを失望させたくなかったばかりに、思い止まったのだという。更に、三位の中将が携えてきた正妻紫の上からの手紙を、押し頂くばかりに嬉しがった直後、同じく三位の中将から手渡された藤壺からの手紙には、平伏して拝まんばかりに有頂天になる。何とかならんもんかね、この性格…。 政治的な失脚の原因が女だというのは、些かイギリス的ではあるが、やはりこっぱずかしいことであったという自覚が欲しい。また、坊主になりたいと口癖のように言いながら、出家しない理由が、女だってことも恥ずかしいと思って欲しい。光の君の不遇には、確かに光の君自身の不手際が存在したのである。何もかもを、前世の因縁で片付けるのは、大人のすることではない。 さて、須磨を嵐が襲った時、光の君は父桐壺帝の亡霊に出会う。舞台では、怪しい存在は桐壺帝の亡霊だけだったが、『源氏物語』の原文には、もう一つ別の怪しい存在が示唆されている。原文は以下の通り。 「海の中の龍王の、いたく物めでするものにて、見いられたりけるなり」 その夜、光の君は夢を見ていた。男が一人、招待されているにも関わらず、訪れがないと光の君を探している。目覚めた光の君は、彼に懸想した龍王が、海中の宮城に呼び寄せようと、嵐を起こしているのではないだろうかと訝しむ。女ばかりか、妙な恐ろしい物の怪に、魅入られてしまったというわけだった。美しいって罪なことなのね。納得している光の君が、何とも可愛い。 海の中に住む龍王と言えば、泉鏡花の『海神別荘』の王子様である。昨年3月に上演された折りには、その王子様を新之助が演じていた。従って、龍王は自身に面差しの似た、そっくりな、同一人物としか思えない、美しい光の君を、頗る愛したナルシストだったわけだ。泉鏡花の龍王であれば、光の君に惚れるのは、当然の成り行きだと思えるではないか。 今回の舞台には藤壺が登場しない。前回は玉三郎が美しくも哀しい藤壺を演じていたが、光の君が藤壺の名前を口にする時、京を遠く離れた須磨で、光の君は正しく幻想を追いかけていた。残念と言えば残念だが、それなりに風情がある演出だったのではないかと思う。 こうしてみると、『源氏物語』は民放のトレンディ・ドラマその物ではないかと思える。『須磨』『明石』を読んで、光の君ら登場人物の年齢を確認したのだが、この時思いついて、紫の上の強姦場面を再読してしまった。やはり光の君は、許せん不届き者だと思う。煩悩のまま生きる光の君は、確かに美しく私の好みではあるが、数多の愛人を囲うような奴を、どうして女性たちが愛するのか理解に苦しむ。女として、光の君に惚れたところで、報われることなど全く期待できない。光の君の中身は獣ケダモノだと、私は思うぞ。しかしながら、王子様というものは、そんな人物を指すのかもしれない。
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