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自己評価をし損なった男

『荒川の佐吉』の作者、真山青果(1878〜1948)は、仙台出身の小説家、劇作家である。父親は伊達藩士族。現在の東北大学仙台二高医学部に学ぶが中退し、百科事典によれば、懐疑的な青春時代を過ごしたという。懐疑的な青春時代というのが、一体どのような生活の有り様を示すのか、全く予想がつかないが、あんまり幸せではなかったってことなんだろう。

仙台であんまり幸せじゃなかった真山青年は、1903年上京し小説家を志す。1905年短編『零落』でデビューを果たした。しかしながら、青果の小説家時代は社会的には、1911年までしか続かなかった。ある事件が原因で、文壇を追われたのである。「ある事件」とは、原稿の二重売り事件だった。そりゃ、拙いよねえ。

その事件以前、青果が最初に注目された小説が、『南小泉村』であった。青果は医学校をを中退した「僕」が、小村の医院に代診として就職し、無知な患者を通して、貧農の生活、ふてぶてしさ、野生味、ずるさなどを観察した作品である。読んだことはないが、清貧という言葉からは程遠い印象を受ける。

さて、三年ほどの雌伏期間を経て、青果の劇作家生活が始まる。松竹と契約して、新派に新作を書く一方、明治文学の脚色も手がけた。青果の戯曲の最大の特徴は、遊戯性を排して論理的にドラマを組み立てたことであろう。青果のロジカルな作劇法は、三島由紀夫も高く評価していたそうだ。

青果の戯曲には、歴史の再評価した作品、英雄の内面を分析した作品、講談浪曲などで大衆に良く知られるようになった人物をパクった作品、『荒川の佐吉』のように底辺に生きる人物の生き様を題材とした作品がある。時代は江戸に設定してはいるが、その登場人物を近代的な分析を以って描いている。

佐吉はやくざの三下だが、これに不似合いな正義感も持っている。拗ねたような皮肉な性格は、佐吉には見られない。チンピラだが悪い奴ではない、そんな実直で単純な男を仁左衛門が演じた。そりゃ、格好良かったさ。しかしながら、佐吉って格好悪い男だったのではないだろうか。

確かに政五郎は佐吉の人物を大きく評価しているが、佐吉はそれに見合った器として自分を考えることができない。これが、佐吉の致命的な弱点なのではないだろうか。自身の美学を持たない佐吉は、その素養がありながら、人間的に成長しきれない。どこまでも、三下の意識が抜けないままなのだ。

佐吉は格好悪い男だから、最後も格好悪く旅に出る。ぱあーっと華やかに終わる芝居だったはずだが、やはり格好が着かなかった。佐吉は、そんな泥臭い男だったのではなかったかと思う。仁左衛門は、佐吉を演じるには、些か格好が良過ぎた。

仁兵衛以外に親分は持たないと言う佐吉に、政五郎は苦々しい思いを感じていたのではないだろうか。佐吉こそが、本来親分としての責任と度量を示すべきだったのである。その器量を持ちながら、これに気づかない佐吉は、やはり三下に過ぎないといわざるを得ない。佐吉は三下だった。いつまで経っても三下のままだろう。お八重は、佐吉の人物を確かに正しく評価していたと言えるのではないだろうか。教育って、大事なのね。


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