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歴史教科書の朝鮮半島に関する記述について、韓国政府からクレームが付き、7月12日木曜日、日本文化の市場開放が事実上停止されることになった。韓国政府が恣意的な歴史的事実の誤認、改変、歪曲であるとした記述は多岐に渡る。今回上演された『楼門五三桐』の背景として設定されている、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争もその一つである。

1592〜1598年の間に豊臣秀吉が二度に渡って企てた朝鮮侵略戦争を、日本では文録・慶長の役といい、朝鮮では壬辰・丁酉倭乱と呼ぶ。当時、秀吉が大名や家臣に対して更に知行地を給付するには、自身の直轄領を割いて与える以外に方法はなく、これには自ら限界があった。

秀吉にとって、朝鮮出兵は国内統一の延長線上にある、封建体制を維持するための必策だった。更に、秀吉の真意は明を服従させることにあり、朝鮮出兵はその道案内を求める程度の認識しかなかったのである。これは、秀吉が当時の国際情勢に全く無知だったことを端的に示している。僅か20年に過ぎない豊臣政権は、その間一貫して対外侵略に熱心であり続けた。

その結果、日本軍は、朝鮮半島に莫大な被害をもたらした。耕地は三分の一に減少し、戦死者以外にも、日本軍による虐殺、難民となった民衆の餓死者、病没者が続出、更に日本に強制連行された朝鮮人は5万〜6万人に達し、人口は戦前の六分の一にまで激減した。日本に強制連行された朝鮮人の中には、優れた儒学者や陶工なども含まれており、唐津焼、薩摩焼などは彼らによって始められた。

医学、朱子学、儒学などの書籍とともに、最も重要だったのが、銅活字のボッタクリだった。織田信長が勝手に個人的にルネッサンスを始めたが、これは本能寺焼失とともに失われてしまった。朝鮮から強奪した銅活字が、日本の本格的なルネッサンスの引き金になるはずだったが、これによる劇的な展開は私が知る限りなかったらしい。しかしながら、銅活字を手に入れるためにしては、朝鮮侵略戦争は余りにも犠牲が大き過ぎた。果たして、朝鮮侵略戦争に、戦争と名のつく軍事衝突による破壊が生み出す、建設的な、例えば経済効果的意味などがあったとは思えない。

秀吉の朝鮮侵略における基本構想は、以下のような幻想に基づいていた。後陽成天皇を北京へ移し、その関白に秀次を就任させ、日本の帝位は皇子周仁親王か、皇弟智仁親王に継がせ、その関白に羽柴秀保か宇喜多秀家を就任させる。これは、事実認識を放棄した妄想に過ぎないが、秀吉という人物の陥った罠の有様を、端的に物語っている。

私は、以前から秀吉が好きではなかったが、それは彼がいつまで経っても足軽だったからではないかと思う。この秀吉の妄想じみた構想は、一人の足軽が夢見た世界征服の幻想のようなものだったのではないだろうか。

今月歌舞伎座で上演された『楼門五三桐』は、戦国時代の盗賊石川五右衛門を主人公に、真柴久吉こと豊臣秀吉の朝鮮出兵を背景に展開する時代物である。しかしながら、展開すると言うほど、内容のあるような芝居ではない。

石川五右衛門は、久吉に滅ぼされた武智光秀こと明智光秀に養育された、惟任左馬五郎であったが、これが実は明の将軍宗蘇卿の子蘇友であったという設定。立ち聞き、覗き、盗み聞きで芝居が展開するのは、作家としては余り望ましくない状況設定だと思うが、天下の並木五瓶の作となれば、そういうものなのかもしれないと思うしかないのだろうか。それにしても、展開の強引さには、脱帽する。

しかしながら、実際の秀吉の朝鮮侵略戦争が、前述のような構想に基づいていたなら、この芝居はかなり正確に、その頃の日本の事実認識の甘さを表現していると言えるかもしれない。残念なことに、現在でも、その甘さは継続している。だから、教科書問題で揉めたりするんだよ。

今回最も私の感心を引いたのは、市川段治郎演じる小鮒の源五郎である。盗賊とは言え、元々は武智の家臣であったという武士である。誰に対しても傍若無人なまでの礼儀正しさを自身で演出できるのだ。おまけにポーズが決まる。これは、ポイントが高い。

段治郎は、何度も見ている役者なのだが、今回の源五郎は頗る印象的だった。二幕目が終わった休憩時間、私は彼の舞台写真を購入するため売店に急いだ。「世に盗人の種は尽きまじ」と題したものの、「世に面食いの種は尽きまじ」とでも書いた方が当っていたかもしれない。今後の、段治郎の活躍に期待したい。

さて、またかと思われる向きもあろうかと思うが、猿之助の宙乗りである。葛篭抜けの場面で演出される宙乗りは、空中に浮いた葛篭から五右衛門が登場し、葛篭を背負った状態のまま三階席へちんたらと移動するというものである。『序幕・第三場・大炊之助館奥庭の場』で、白鷹の精が登場するが、これは花道を走って退場する。どう考えても、五右衛門がちんたらと移動するのに使うより、白鷹が大空に飛び立つ方が宙乗りに相応しい場面ではないか。

一つの芝居の中で、一度しか宙乗りができないなどという制約はない。座長である猿之助が、伝統の宙乗りを勤めるのは是としよう。それが、大盗賊石川五右衛門の退場場面でありながら、どんなスピード感も感じさせないような、ちんたらと移動する演出であったことも是としよう。観客は確かに、猿之助の鈍重な動きに拍手喝采していたのだからね。

だがしかし、それら全てを是認するからには、最も宙乗りに相応しい状況を、宙乗りで演出して欲しいと思う。美しい白の振り袖で拵えた白鷹の精が、一気に大空に舞い上がったなら、どれほど優美で勇壮なインパクトを、観客に与えることができるだろう。その機会を、敢えて逃していることに、失望を禁じ得ない。(2001,7,14)

白鷹よ、飛べ!!!

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