何かしら不都合が重なった時、これを病気のせいにするのは、確かに自分を納得させるには最も簡単な方法だということを、難病患者で身体障害者である私は知っている。歌舞伎座二月の昼の部は、そんなことを改めて考えさせる、『傾城反魂香』が上演された。 吉右衛門演じる絵師又平は、弟弟子に遅れを取った原因が、自身の吃音障害にあると感じている。特定の病気や障害に対する偏見は、今尚根深い。これを恐れずに言えば、又平の出世の遅れの原因を、彼の吃音障害に帰するのは甚だ困難であると言わざるを得ない。 又平にとって、吃音であることが、唯一周囲に溶け込めない、疎外感を感じさせる要因だった。吃音障害さえなければと、何かにつけて又平は思う。その思いが、弟弟子修理之助に先を越された一件で爆発したわけだ。 死を決意した又平の最期の絵が、師匠将監の目に止まったのは、その絵が素晴らしかったからで、又平の吃音障害が消滅したためではない。このことが示すように、将監がこれ以前の又平の絵を評価しなかったのは、吃音障害には何ら関係がなく、只それまでの彼の絵に、見るべきものがなかったからに過ぎない。将監は又平の自画像を見て、その絵に対して、又平が切望した土佐の名を許す。又平は大喜びするわけだが、又平は絵師として喜んでいるわけではない。 又平が本当に自身の絵を見極めたのであれば、土佐の名を許すという将監に、そんなものはもういらないと断るのが正しい反応であろうと思う。画才がない為に、土佐の名を欲しがったことを自覚し反省する気持ちがあれば、絵師として合格である。しかしながら、又平には、そんな気持ちは全然ない。絵師としてのプライドを守り、浪人の身に甘んじている師匠将監とは大違いだ。 又平は、あくまでも健常者を羨む吃音障害者という対場から脱却できないのである。又平は、普通のおじさんになりたかったのではないかと思う。吃音障害が、自分が普通ではない、或は特別な人間であるという認識を又平に与えた。しかしながら、又平は絵師として才能のある人物ではあったものの、人間として凡庸だったために、その才能を開花させることができなかったのではないだろうか。又平にとっては、絵を描くことだけが、唯一他者から抜きん出ることができる資質だった。だからこそ、又平は、自身が普通であるための手段として、土佐の名を焦がれるほどに欲したのである。 更に、私は今回の芝居で、家庭内暴力がどういうものなのかを、初めて目の当たりにした気がした。弟弟子修理之助を追おうとする又平は、将監ばかりか女房おとくにまで止められて、怒りの余り拳を振り上げる。その怒りは自身に対して向けられたはずだったが、物理的に振り上げられた拳は行き場を失い、最も身近なおとくを、打ってしまったのである。 今まで、家庭内暴力が何故起こるのか理解できなかったが、理屈は分かった。しかしながら、納得できるかどうかは別問題である。又平には、怒りをぶつける対象が必要だったが、おとくを打つことで、問題は何一つ解決してはいない。家庭内暴力は、障害者に対する差別や偏見と同じく、極めて深刻な社会問題なのだ。 又平の悲劇は、吃音障害に対する社会的な差別や偏見が、彼の絵に対する正当な評価を妨げたことではなく、吃音障害という特異点があったために、自身が凡庸であるという事実を、自覚することができなかったことにあるのではないだろうか。このことが、家庭内暴力までをも引き起こす原因となったのである。 又平が自身をどう分析していたかは別にして、私は確かに、彼は普通のどこにでもいる凡庸なおじさんだったと思うぞ。
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