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時代物人形浄瑠璃、全五段。文耕堂、三好松洛による合作で、1737(元文2)年1月大坂竹本座で初演。歌舞伎での初演は、1755(宝暦5)年6月京都沢村座。全五段が上演されることは滅多にないが、今回の三段目『弁慶上使』は、人形浄瑠璃、歌舞伎ともよく演じられる人気狂言である。

紀伊熊野の別当が二位大納言の姫君を誘拐して、生ませた子供が弁慶だとされている。弁慶は、母の体内に18ヶ月いて、生まれた時には2〜3歳程度の子供のようだったという。父親となった別当は、生まれた子供を鬼神だと考えて殺害しようとしたが、母親となった姫君の願いを入れてこれを助けた。子供は鬼若丸と名づけられ、その後京都で養育されることになる。長じるに連れて何かと問題多く、落着かないまま修行と称して諸国を巡り、弁慶と名乗る。義経と出会ってからは、忠実な家臣となり、1189年衣川の合戦において義経と共に戦死。

桃から生まれたり、竹から生まれたり、人間から生まれても異常誕生であることが明白な伝承を持っている人物は、常に非常識な能力を持っており、ある種の貴種であると認識されていることが多い。弁慶の場合も同様で、彼は怪力の大男で、鋼鉄のような肉体を持っていたと言われている。その容貌は、正しく鬼のようだったわけで、弁慶の与える視覚的イメージが、彼に纏わる様々な伝承・伝説を創出したのだろう。日本における因習的な鬼のイメージは、天狗、妖怪、物の怪などと同じく、「望まれないまま勝手に育った捨て子」に集約される。弁慶もまた、親に疎まれた捨て子であったのかもしれない。

『弁慶上使』では、その弁慶が、女を遠ざけていたことになっている。16歳の時、初めておさわと関係を持ち、その後は一切スケベ行為がなかったというのである。別に、弁慶が女好きでなければならない必然はないが、芝居の設定としても不自然な印象は拭えない。この場合、「女は」という限定否定であると考えるのが、妥当であろうと思う。

劇中、おさわは一夜の夫を捜し求めて諸国を巡るが、弁慶の方には、おさわとの再会に特別な情が動いたと感じさせる演出はない。件の赤い襦袢も、母親が縫ってくれた懐かしさ故に、身につけていたのであって、おさわとの思い出が理由だったわけではない。また、おさわの言う一夜の夫が自身であることを認めたと言うよりは、信夫の父親であることを確認したという印象の方が強い。弁慶の悔いは、娘信夫に対する愛惜であり、おさわの思いは完全に無視されたまま、侍従太郎の屋敷に放置される結果をもたらす。18年に及ぶおさわの探索は、弁慶が娘を殺すためだけにあったようなものだと言えよう。

信夫の首であろうが、卿の君の首であろうが、侍従太郎の首がおまけにつこうが、頼朝は義経の生存を許すつもりはなかった。弁慶は義経を救うための使者として侍従太郎の屋敷を訪れたつもりだったが、結果的に二人の関係者を、無駄な死に追い込むことになったのである。この後、弁慶は義経に従って奥州に逃れるが、殺害される時期を少しだけ延期したに過ぎない。頼朝は確実に義経を追い詰め、これを殺害した後には、奥州藤原氏を滅亡に至らしめることまでしている。役者が違うとは、こうしたことを言うのではないかと思わせる手際と言えよう。義経は確かに有能な軍事司令官であったが、頼朝はそれ以前に、有能な政治家だったのである。

木曽義仲を討った頃、義経は紳士的な戦い方をしていたと考えられているが、義仲よりもマシだった程度のことらしい。その後、戦闘を重ねるうちに、義経は次第に自制を失い、戦場となった町や村で、略奪、放火、強姦、殺人を行うようになる。実際のところ、紳士的な戦闘なんてものがあるとは思えないが…。ともかく、日本人は概して義経が好きで、義経の死亡時の悲劇性が強調された伝承を耳にする機会が多いことから、自身でも気がつかないうちに、義経が「良い人」であったというイメージを持たされているのではないだろうか。

対平家戦で、義経は、日本で初めて軍団単位の奇襲作戦を指揮した軍事司令官だった。彼の死の90年ほど後になるが、二度に渡って来襲した元寇で、鎌倉の御家人を中心とする武士たちは、蒙古軍の集団戦法に戸惑い、膨大な死傷者を出して、敗戦を重ねた。仮に、義経が軍事司令官として、鎌倉幕府の軍事に携わっていたならば、日本軍の戦い方は、変わっていたのではないだろうか。

源氏の軍勢が対平家戦を戦っていた時、勝っていたのは義経だけだったのではないかと思う。義経の戦法は、それまでの有力武士の一騎打ちという、日本古来の戦闘様式から大きくかけ離れたものだった。そのため、平家には対抗し得る術がなかった。つまり、反則だったのである。従って、鎌倉武士は、彼らに勝利をもたらした義経の戦法を学ぶことのないまま、元寇に臨み、こてんぱんにされることになった。

義経は平家打倒に是非とも必要な人材だった。彼が生まれるのが早過ぎたという考察は、説得力がない。むしろ、もう一人の義経が、未曽有の危機であった元寇に臨んで必要だったのではないのだろうか。中世代に近代戦の思考を以って戦った義経は、確かに英雄と呼ぶに相応しい働きを示した。しかしながら、義経の英雄としての在り様は、歌舞伎に見られるような報われなかった悲劇的な青年としてではなく、配下の武士を兵士という消耗品として考える、冷徹な軍事司令官としてのみあったのである。

弁慶が常人としては常軌を逸した存在であったように、義経もまた、平時においては、危険な存在でしかなかった。当時の御家人たちを、近代的な軍組織に再編するのは、誰にとっても困難な仕事だった。この役割を、義経に任せることは、到底無理な話しだったわけだ。

主君のために命を投げ出すことは、武家社会にとって至上の義務であった。武士とは、武力を背景に社会の安定を図る組織の構成員であり、主君の命は主家の存続、如いては社会の安定そのもの意味した。だからこそ、これを守ることは、何にも増して優先したのである。信夫は武士ではなかったが、短い期間だったとは言え、侍従太郎の館の腰元であった経験は、武家社会の一員としての確かな自覚を彼女にもたらした。結果的に、弁慶に殺害されることになったが、信夫の死は彼女にとって武士の自刃と変わりない。

侍従太郎の切腹は、自身の忠節を、信夫の死だけに頼って示すことを潔しとしなかったからだが、義経に対する頼朝の一連の陰謀が、自身の死を以って終結するよう願ってのことだった。先に述べたように、彼らの守るべき主君義経は、社会の安定とは程遠い危険人物であった。その義経のために、信夫も侍従太郎も、結果的に無駄に死んだ。仮に、義経が社会の安定を担う人物であったとしても、犠牲として誰かに死を強要しなければならないなら、その社会の成り立ち様は確かに間違っている。弁慶も侍従太郎も、これを知りながら武士であることを貫いたのである。

犠牲者の死を無駄にしないという言い方があるが、如何なる場合も、犠牲者の死は常に無駄な死だった。次の犠牲者を出さないためにこそ、努力が払われるべきであろう。昨今の国際事情を鑑みて、よりその思いを強くした。幕。(2001,12,9)


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