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演劇評論家が何と言おうと、

野田秀樹演出・勘九郎の討たれは、

面白かったぞ!

20年ほど前、『夢の遊民社』という劇団があった。野田秀樹という演出家がいた。それを思い出した。五場1時間30分余りを、一気に見せた手腕はお見事の一言に尽きる。以前は、小五月蝿く感じた野田の長台詞も、勘九郎の巧さによって、本来の野田演出が持つ面白さに、可笑しさも加わった感があった。

実際のところ、野田演出の『研辰の討たれ』を観て、木村錦花原作の歌舞伎を観たと考えるのは難しい。私も木村錦花を知らないので、木村の『研辰の討たれ』と比較検討し、これを論じることができない。今月上演された野田版についてのみの解説であり、感想であると思っていただきたい。

多分、勘九郎が言い出したのだろうと思う。勘九郎が企画し、野田がこれに乗った。歌舞伎座が野田演出を舞台に乗せたのは、英断と言って良いが、これも勘九郎の熱意の賜物であろうと思う。私は余り勘九郎に好意的ではない傾向があるらしいが、惨めな男を演じさせたら、勘九郎に敵う役者はいないと思っている。その勘九郎演じる辰次は、花魁八ツ橋に手酷く振られた、田舎者の中年商人次郎左衛門を思い出させた。

辰次は毎日を楽しく過ごしたかっただけなのだろうと思う。そこに赤穂浪士の討入り騒ぎがあった。日常に起こった非日常、敵討ち。その不自然さが、元町人辰次の心に、武士への不信を呼び起こし、その不信が、辰次に家老平井市郎右衛門の髷を切ろうという間抜けな行動を思いつかせた。平井の髷を切るはずだった、亀蔵が演じるカラクリ人形は、絶品だった。あれだけでも、もう一度観たいもんだと思う。

武士は、脳卒中では死なない。誇り高い家老職にある平井は、自身が吐いた言葉によって、自らの死の原因を偽らせることになる。平井兄弟が現場に駆けつけた時、敵討ちという言葉に、二人は一瞬素に戻る。「えっ?」と言う、二人のタイミングは絶妙であった。この「えっ?」が不発に終ったら、芝居は台無しだった。平井兄弟が見せた、『第一場・粟津城内の道場の場』での模擬試合も見事な出来栄えだった。平井兄弟を演じた、染五郎と勘太郎に、改めて拍手を贈りたい。

今回最も目立ったのは、福助ではないかと思う。奥方の扇を広げた「あっぱれ!!!」には、感服した。例えば通常の演劇では、奥方の「あっぱれ!!!」は、浮いてしまう危険があった。しかしながら、あの「あっぱれ!!!」を日常的に見ることのできる場所が、現代の銀座にはあるのだ。歌舞伎役者が歌舞伎座で、あの「あっぱれ!!!」を演じて見せる。これほどの面白味は、他の劇場では表現し得なかったのではないだろうか。染五郎と勘太郎の、「えっ?」のタイミングと共に、「あっぱれ!!!」の絶妙さは、亀蔵のカラクリ人形にも匹敵する出来栄えだったと言えよう。

奥方として「あっぱれ!!!」な演技を見せた福助は、『第三場・道後温泉蔦屋の場』以降では、武家の姉娘およしを演じている。この素っ頓狂な勘違い娘が、如何にも可愛い。もう、何をしても許す!!! そんな気にさせる、とぼけぶりだった。武家の娘に生まれたからには、敵討ちの英雄の妻とならねばならない。どんなに平井兄に五月蝿がられようとも、ここは押すしかないでしょう。じたばたと、平井兄の背後で、いじましく自己主張する様に、顔が綻び、口元が緩む。可愛いのである。

染五郎と勘太郎の模擬試合といい、福助の素っ頓狂振りといい、歌舞伎役者ならではの芝居が、そこここで見られた。これが、例えば、他の劇場で上演された芝居であったなら、歌舞伎役者を使うのは反則であろうと言いたいところだ。脇を固めた役者たちも、脇を演じることに徹している歌舞伎役者である。細やかな演技が、五月蝿くなく、舞台に収まる。多分、野田がこんな風にと口で言ったことを、彼らは持ち前の技術で、やってのけたのではないだろうか。訓練の賜物というわけだろう。その場その場の群集を演じた彼らに、歌舞伎役者の真髄を見た気がする。

さて、最後の幕切れは、呆気なかったが、面白い舞台だった。何より、役者が楽しんでいるのが窺えた。そういう役者たちの舞台を観るのは、観客にとっては、得した気分になれて嬉しいものだ。終演後、観客たちの反応が非常に良いのが分かった。あれは歌舞伎ではないと、野田を批判する劇評が予想されるが、観客の反応を見れば、勘九郎の勝ちだということは歴然としている。歌舞伎劇評家の皆さんも、ここは一つ大人になって、面白かったのだということを評価して欲しい。幕が引かれた時、劇評が良ければ良いなあと、心からそう思った。勘九郎と野田秀樹に拍手。お疲れ様でした。幕。

最後に一言。カーテンコールは余計だったと思うぞ。


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