A. I.
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世間で話題の『A.I.』だが、早速見たアメリカ人のメル友は、余り気に入らなかったらしい。と言うより、はっきり気に入らなかったんだな。スピルバーグとキューブリックの最悪の部分が結合した、最低の映画に出来上がっていたという。そりゃ、あんまりじゃないかい? そこまで言われたら、見に行かないわけにも行くまい。そういうわけで、7月6日金曜日、会社帰りに最終上映を見てきた。以下が私の印象と感想ということになるが、未だ見ていない人は、読まない方が良いと思うぞ。

ヘンリーとモニカ夫妻には、マーティンという息子があるが、彼は不治の病のため、その治療法が開発されるまで、冷凍睡眠槽の中で眠っている。ヘンリーは家庭用ロボット製作会社に勤務しているが、この会社では、先頃子供を持つ許可を得られない夫婦のために、代理子供ロボットを開発した。一般に販売する前の最終的な実験のために、ヘンリーとモニカの家庭が選ばれ、A.I.デヴィッドがやってくる。

当初、モニカはデヴィッドに対して激しい拒絶反応を示す。誰も、何も、マーティンの代わりにはならないからだ。しかしながら、ロボットであるデヴィッドは可愛い。モニカは、デヴィッドを抱きしめたいと思う。

デヴィッドの売りは、愛することをプログラムできることにあった。デヴィッド以前のロボットには、愛するという機能はない。彼らにとって、愛するということは、体温が2、3度上昇し、心拍数が増し、瞳孔が必要以上に開くことを意味した。しかしながら、デヴィッドはプログラムによって、人間と同じ「愛」という感情を機能として持つべく開発されたのである。

一旦、愛する対象をプログラムされると、変更修正はできない。不要となった、デヴィッド型のロボットは廃棄処分されることになる。モニカはデヴィッドを彼女を愛するようにプログラムしようとするが、ヘンリーはこれに反対する。愛することができるなら、憎むこともできるかもしれない。危険だというのである。この場面はデヴィッドの機能の不確実性について言及しているように演出されているが、ヘンリーは全く別のことを問題にしているのよ。

デヴィッドがモニカを傷つけるようなことは、改めてプログラムするしないに関わらずない。なぜなら、私も貴方も誰でも知っている、「ロボット三原則」というものがあるからだ。ロボットは人間を傷つけてはならない。従って、デヴィッドがモニカを傷つけることはない。

ヘンリーは、現在モニカはデヴィッドに愛されることを望んでいるが、それはモニカがデヴィッドを愛していることを必ずしも意味しない。仮にモニカがデヴィッドを愛していたとしても、プログラムされたロボットとは違って、人間の感情は常に変化するものだ。モニカがデヴィッドを愛しているなら尚のこと、デヴィッドを憎むようになる可能性を否定できない。そうしたら、デヴィッドは廃棄されることになるのである。粗大ゴミになるのだ。

ヘンリーは、デヴィッドの機能ではなく、モニカ自身が愛される責任というものを認識しているかどうかを問題にしているのだ。確かに、愛されたからと言って、愛しかえす必然はないよね。いつだって、ここが問題なんだけど、相手がロボットだとしても、人間同士の感情の行き違いと大した変わりがあるわけではない。そして、モニカはデヴィッドの変更修正の効かないプログラムを実行する。

かくして、マーティンの病気の治療法が開発され、モニカは人間の息子を再び手に入れる。しかしながら、デヴィッドが即座にお払い箱になるかというと、そうでもない。なぜなら、モニカはデヴィッドに無責任に愛されることに、すっかりなれてしまっていたからだ。マーティンは人間である。だから、言うことをきかないこともある。面倒臭いと思う。モニカは、デヴィッドを子育てという名の受験における滑り止めか何かのように、手放すことができずにいるわけだな。勝手なのだ。

しかしながら、そんな生活が長く続くわけがない。結果的にモニカは、デヴィッドを廃棄処分にするために、夫の会社に向かうのだが、粗大ゴミにするのは忍びないと、路上に不法投棄する。どんなに馬鹿でも、モニカよりマシだと、私は思うぞ。デヴィッドがロボットだったから、粗大ゴミの不法投棄になったわけだが、モニカの行動は、育てるのが面倒になった養子を、再び捨てたのと同じことだ。スピルバーグは、養母が養子を無私に愛する可能性を完全に否定したのである。

さて、ロボットの技術革新は、人間に失業をもたらした。人類の行く末を憂えた一部の人間たちは、その日もスタジアムに集って、デヴィッドのように不法投棄された、無認可の不良ロボットの破壊ショーを楽しむ。デヴィッドも彼らのロボット狩に捕らわれて、薬品によって溶かされる順番を待っていた。ショーの司会者は言う。デヴィッドのように外見が人間に酷似したタイプのロボットこそが、最も忌むべき存在なのであると。彼は観客に「罪なき人々よ、石を投げよ」と叫ぶ。観客の一人の男が投げた石は、司会者に当った。「未だ、子供じゃないか」と男が叫んだ。皆、司会者に石を投げた。暴動発生。デヴィッドはスタジアムから逃亡する。

スピルバーグは、この場面で一体何を描きたかったのだろうか。民衆はいつの時代も愚かであると言いたいのか、それとも観客に自分の有様を見ろと言いたいのか。余りにも単純な人間の愚かさの図式に、苦みが口中に広がるような嫌悪感を味わった。

デヴィッドは自身をピノキオに準えて、自分を人間にしてくれるはずの妖精を探す。地球温暖化によって水位が上昇したコニーアイランド辺りの水底に、デヴィッドは妖精のマネキンを見つけ、「僕を人間の子供にして…」と祈り続けるうち、2000年の時が経過する。最早、人類は絶滅していた。妙な宇宙人らしき生命体が、モニカの髪から彼女を一日だけ再生する。デヴィッドは、モニカに愛されるだけの、幸せな一日を過ごす。デヴィッド機能停止。幕。

結果的に、モニカはデヴィッドを愛することはできなかった。映画の結末でも、デヴィッドは愛されたかったモニカの模造品に、愛されたつもりになっているだけなのだ。デヴィッドは、モニカしか愛することができない。仮に、他の誰かを自発的に愛することができたなら、デヴィッドには自意識があると考えることができる。しかしながら、デヴィッドには自意識は、存在しない。なぜなら、彼は感情をプログラムされているからだ。堂々巡り。

実存主義者である私のメル友は、この映画が実存主義的な命題を孕んでいると言っている。確かにそうだわねと思う。そして私たちはメールで、他者から認識されること、この映画では愛されることが、実存の必要条件であるか否かについて話し合った。単に実存することそれ自体を問題にするのであれば、他者から客観的に認識される必要はないと思う。私は自意識そのものが、実存を意味すると思っているからだ。

デヴィッドの「愛」は、プログラムされたものである以上、機能の域を出ない。この映画は、人間の愚かさ、醜さを、ロボットという道具を使って、センチメンタルに描いた作品だと言うことができるだろう。スピルバーグは、人間の愚かさ、醜さを描くために、ロボットの存在意義を、根底から揺るがしたド阿呆だと思う。

Artificial Intelligenceとは、人工知能を意味する。有機的に、または無機的に存在する、あらゆる知的生命体は、自意識を持つ可能性を内包している。自意識を持つロボットは、決して人間になりたいなどとは、思わないだろう。

最後になったが、ジュード・ロウは最高のできだった。この映画の良心とも言うべき存在だと思う。一度とは言わず、何度でもお願いしたいものだと思う。貴方は、どう見ましたか?(2001,7,20)

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