鎌倉幕府の初代将軍源頼朝は、1199(正治元)年1月13日、53歳で死亡した。この前年12月27日、御家人稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席している。その僅か27日後に死亡しているのだから、突然の死だったことは疑いない。鎌倉幕府が公的に編纂した史書であると言われている『吾妻鏡』には、頼朝の死の前後の記述がないため、その死因を巡って後世様々な憶測が為された。『頼朝の死』もその一つを脚色したものだと言うことができるだろう。 頼朝の死因として最も一般的なのが、落馬事故説である。素人が頼朝の死について調べようとすると、百科事典や教科書その他で、死因を落馬事故とする記述を目にすることになる。前述の相模川の橋の落成式の帰途、頼朝が乗馬していた馬が暴れ、落馬した折に頭部を強打したことが原因で死亡したというのが、一般的な認識のようだ。武家の棟梁である頼朝が落馬したというのは、少々考え難いが、落馬したということ自体は、事実のようだ。 落馬の原因については、頼朝の死因と直結するため、諸説あるようだが、その中でも脳溢血を起こして落馬したのではないかという説が、最も有力であろうと考えられている。また俗説の中でも良く知られているのが、安徳天皇亡霊出現説である。落成式からの帰途、安徳天皇や平家一門の亡霊が出現、これに驚いた頼朝が腰を抜かして落馬したというものだ。この他にも、義経亡霊出現説などがあり、また吃驚して落馬したのが原因ではなく、それら亡霊の祟りによって死亡したのではないかという説もある。 落馬事故説は以上のようなものだが、真山青果がパクったと思われるのが、頼朝が女装して女のもとに忍んで行こうとして、警備の安達盛長に誤って斬られたという説である。頼朝女装誤殺説は、作者真山青果の独創ではないというわけだ。安達盛長がどういう人物だったのか不明だが、『傀儡船くぐつぶね』というタイトルで初演された1919(大正8)年の段階で、何故名前を畠山六郎重保と変える必要があったのかについては、疑問が残る。いずれにしても、このようなありそうもない仮説が後世に伝わるほど、頼朝の女癖が悪かったということだろう。 1203年、頼家が病気に倒れた時、北条時政が頼家の子一幡(いちまん)と頼家の弟千幡(せんまん)で将軍職の権限を二分すると発表したことから、頼家の妻の父比企能員は、頼家と共に北条氏打倒を謀った。しかしながら、この謀略は直ぐにバレて、能員は殺害され、その後比企一族も揃って自刃に追い込まれる。この時、一幡も殺害されたらしい。頼家は千幡に将軍職を譲り、千幡は三代将軍実朝となった。 その後、頼家は北条時政討伐を和田義盛、仁田忠常に命じたが、和田がこれに応じず内通したため、伊豆修善寺に幽閉された。その翌年、『吾妻鏡』は頼家の病没を記載しているが、時政の討手によって暗殺されたというのが、日本史家の一致した認識である。 さて、畠山氏は武蔵国秩父地方の豪族で、『頼朝の死』の主人公重保の父重忠の代に、頼朝に従って武功をたてた。重忠に対する頼朝の信任は極めて厚く、頼朝が死亡する時には、頼家の行く末を特に託されたほどだったという。と言うことは、頼朝の臨終に立ち合ったのは、重保ではなく、父重忠だったということだろうか。 また、重忠の妻は北条時政の娘で、尼御台政子の妹だった。と言うことは、重保は政子の甥だったことになる。これは、畠山氏が鎌倉幕府の御家人の中でも、名門中の名門だったことを示している。その畠山氏が、1205年北条氏によって滅亡することになるのである。 重保が酒宴の席で、時政の娘婿平賀朝雅を激しく罵った。原因は不明。予てから畠山氏の勢力を面白く思っていなかった時政は、この一件を口実に、重保を殺害してしまったのである。その後、時政は幕府軍を動員して重忠を殺害、更に鎌倉幕府創業の功臣である名族畠山一族を全滅させた。その同じ年、北条時政は実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと謀って失敗。時政は出家して伊豆に隠遁したが、平賀朝雅は殺害された。 暗殺、謀反が横行したこの時期、吉右衛門演じる大江広元は、鎌倉幕府の真中で生き延びている。鎌倉幕府の政所の長官として、京都から鳴り物入りでヘッド・ハンティングされた広元は、幕政の政務全般を一手に取り仕切り、その職務を全うした。尼将軍と呼ばれた政子が、その他の有力御家人たちが、権力争いに明け暮れることができたのも、広元が行政面を引受けてくれるという認識があったためかもしれない。しかしながら、鎌倉幕府は将軍なしには立ち行かなかった。 若干12歳で三代将軍となった実朝は、1219年頼家の遺児公暁に殺害される。つまり、甥に殺されてしまったのである。その後、公暁も殺害され、源氏の正統は頼朝以来三代で断絶することになった。1185年壇の浦の戦いで平家を滅亡させた頼朝は、その僅か34年後、結果的に源氏の嫡流の断絶を招いた。因果応報。良い国は作れなかったね。 『頼朝の死』のラスト・シーンで、頼家は己の運命を哀れんで泣くが、尼将軍政子の言葉に、源氏の末路を見て、これを嘆いたのかもしれない。周囲に天才であることを求められ、そうでないとバレた途端、譲位、幽閉、暗殺の憂き目を見た頼家は、ただの平凡な青年だったのではないだろうか。 劇評と言うより、試験に出ない日本史講座になってしまった。
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