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・経緯 ・私の一日UP |
・地元NGOとの出会い ・その他 |
経緯 |
1992年4月22日午後4時37分。間もなく母が神戸から乗って来るひかり号が到着する時刻。私は到着ホームの12号車の前で
母の帰りを待っていました。母は横浜に転居してから友人がいない為寂しいのか、神戸の友人の所を中心に5泊6日前後の日程で、
年に2回ほど神戸に遊びに行くのが習慣となっていました。 もうすぐ列車が入ってくる頃と思った時、母の名前を告げ「御家族の方駅長室までお越し下さい」というアナウンスが入りました。 この瞬間「何か異変が・・・」と思い、駅長室へ飛んで行きました。 そこで告げられた言葉が「お母様は次の列車には乗ってらっしゃらないようです」・・・理由は何も解らず、只車掌さんが 「新神戸駅から連絡が入った」と。当時73歳だった母が神戸に行く時は、私は座席に座った事を確認して見送り、 神戸では友人とその娘さんがホームまで出迎えてくれて、帰りは私と同じ様に席に座らせ、見送ってくれていました。 母が一人になるのは乗車している間だけなので安心していました。 私はすぐに母の友人の家に連絡を取ったところ、次のようなことになっていました。 何があったのか母は神戸から乗って京都で下車してしまったのです。そして駅構内をうろついている所を御親切な方(Aさん)に お声をかけて頂いたようでした。Aさんは母の様子が変なので心配になり、色々と母に尋ねて下さったのですが、 母の答えは身元も解らないくら要領を得ないものであったようです。そうこうしているうちに、友人が母の荷物を送ってくれた 宅急便の半券を母のバッグのポケットから見つけ出して戴き、それを見て取り合えず神戸の友人の家に連絡をして下さいました。 Aさんは待ち合わせの御約束の時間を変更して母を新神戸駅まで送って下さいました。 その時の母はまだしっかりとしていたようで、Aさんへの切符代やお礼などを忘れずにお渡ししていたと、後でAさんから 聞かされました。そしてAさんのお陰で途中で倒れることなく無事に、神戸の友人の家まで辿り付けました。 私達にとって、Aさんは本当の命の恩人です。あの時Aさんが母にお声をかけて下さらなかったら、どうなっていた事かと 想像しただけでも体中の力が抜けてしまいそうです。 Aさんはお若いOL風の方で、その後すぐに御結婚され、1年後に御出産されました。母のような人を見かけても普通知らぬ顔して 通り過ぎてもおかしくない殺伐とした世の中、あんなにお若い方が暖かい心で母に接してくださった事を心より感謝致しております。 そして友人の家へ着いた頃には、もう母の足も動き難くなり、食事をする時も手が口までとどかず、口をお箸に近づけるといった 風になっていたようです。その症状を電話で母の友人に聞いた時、遊び疲れだろうと軽く考えていました。今思えば、もうその時 すでに母の体は、脳内出血の為異変を起こしていたのです。 私は少しでも早いほうが良いと思い、夜行に乗って神戸に向かい翌朝友人宅へ着きました。そして母の様子を見ましたが、 まだ事の重大性には気が付かず、友人宅にそのまま母を預け、神戸、大阪、岡山での仕事を済ませて、翌日すなわち最初の症状が 出てから2日目に新幹線で連れて帰りました。 新横浜駅に到着する頃、母を支え歩いていた私に、同じ車輌の初老の御夫婦の奥様が声を掛けて下さいました。「大丈夫ですよ! 主人もこの様に旅行が出来る様になりましたから」と。しかし私は、またしてもその意味を把握出来なかったのです。 そして荷物を降り口まで運んでくださいました。そして病院に直行しました。 検査の結果脳内出血を起こしており、直ちに入院することになりました。不幸中の幸いとでも申しましょうか、 出血はその1回の一瞬で止まっていた様で手術の必要はないということでした。只、「右半身麻痺、言語障害、痴呆など」 後遺症として残ると医師から伝えられました。そして数日でICUから普通の病室へ移り、治療とリハビリの入院生活が 始まりました。 運良く母の機能回復訓練の為のリハビリを担当して下さった先生は、リハビリテーションの中でも一番の先生で、先生は母の リハビリと平行して私にも筋肉の仕組み、名称、機能、など色々と教えて下さいました。 そして私も必ず母のリハビリに付き合って一緒に頑張っていました。数回のリハビリを行ううちに、私の仕事としているダンスの エクササイズと似通った部分が多いことに気が付きました。先生がお忙しそうになさっている時に、私が覚えたリハビリを 母にさせていたところ、先生が「もう娘さんに任せて良いですね?」と言われ、それ以来先生がお忙しい時は順番が来るまで 私が母のリハビリをするようになりました。 病室は6人部屋で、同じ様なお年寄りや怪我で入った若い方等など。出入りはあったものの長期入院はやはり母のような脳神経外科 関係の患者さんが多く、母の病室へ一日2度通っていた私に他のお年より達は、私の来院を毎日待って下さるようになりました。 そのうち全く言葉が話せないおばあちゃまの「ア〜ア〜」だけの言葉も私には何が言いたいのか理解できる様にもなりました。 母の部屋へ度々通って行くのは私だけで、他の御家族の方は多分お忙しかったのでしょう、お洗濯物の交換が済めばお帰りになる という状況が殆どでした。 そんな状態なので、自然と他の患者さんのお世話もするようになり、面会時間が終わる頃になると母は、「早く帰ってラッキーに ご飯を食べさせて」と毎日言います。しかし他の患者さん達は「もう帰るの?明日もくる?何時に来るの?」等など皆さんから 尋ねられ、私はいったい誰の娘なの?と毎日のように母達と笑っていました。 そして母は杖を使っての歩行が出来る様になり、病室のお仲間の方々も順次退院されて行きました。ただ一つ私が 驚いた事は、病院側から「そろそろ退院を・・・」と言われ「良かった!」と思い「いつ連れて帰れますか?」と尋ねたところ、 病院側は「家に連れて帰られるのですか?」「転院はなさらないのですか?」「転院されるなら他の病院を紹介します」と言われました。 その時私は問われてる意味が把握できなかったのですが、他の方々は家ではお世話が出来ないので、遠くの他の病院に転院される ことが多いと後で知りました。
半年の入院生活の後、やっと退院出来る様になりましたが、医師から告げられた通りの後遺症は残りました。 しかし異変を感じた時には、ただの疲れと甘く考えず、1秒でも早く病院へ行く事。何もなければそれで良し、何か有れば少しでも 早いほうが何よりと考えます。脳の場合だけではないでしょうが、数分の処置の差が命にかかわると云う事を身近に感じ、 無知の恐ろしさを嫌と言う程思い知らされた経験でした。 |
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★回復
母に私の気持ちが通じたのか日を増す毎に体力が回復してきた。最後まで諦めずにケアをしてきた甲斐があった。
初公開の母と私の写真…敬老会&米寿を迎えたバースデー。(米寿のお祝い色は黄色)
★異変
★2004年5月8日に脳梗塞
母を起こしオムツ交換をしようと足を立たせた途端にストン!と右足が下へ伸び、右手はロープのようにブラブラ状態。驚いて訪問看護の看護士さんに電話をかけ、救急車で病院へ。診断の結果レントゲンには写らないが小さい梗塞が起きているとのこと。私の看たところ母の状態は手足の麻痺以外は変化がなく、家に連れて帰ると申し出たが許可が下りず、救急医に土曜日でもあり主治医が来られる月曜日まで入院を要される。翌朝私が病院へ行くと看護士さんからお話があると言われ、主治医が夜中に病院へ来られ、母の写真を御覧になり直ぐに退院して良いとのこと。そして直ぐに退院。
★数日経って
タンがからむような咳が出て発熱。風邪ではなく炎症からの発熱らしい。その日を堺に母の状態は全てにおいて機能低下がみられる。
★最後の決断
先日、在宅医療の医師から食べられなくなった場合の最終的な治療について話が持たれた。叔母も友人のお父上も鼻チューブから胃ろうになる。自宅に帰ってから家族がチューブの取り換えを行う事になる。一つ間違えればチューブは胃に届かず誤って肺に入る危険も伴う。それが恐ろしくて皆胃ろうにするようだ。
★9月現在
努力の甲斐あって、母は順調に体力を取り戻しつつある。
★9月現在の私の一日
母の起床後、オムツ交換(石鹸で洗浄)車椅子は狭い所では使い難い為、母が普段座っていた椅子にストッパー付きのキャスターを付けてその椅子を利用している。(ダンナちゃまの考案)
2004年2月に
母の状態は12年前からみて、2年前に風邪をひいて発熱後機能低下が見られ、やっと70%回復し安定していました。ところが今年2月にお薬を飲んでいるにも係わらず2日3日と便が出なくなりました。水分補給も十分に足りていいました。そこでいつもの様にポータブルに座らせ、毎日やっているお腹の運動などを少し多めにやったところ、すっきりと便通がありました。しかし、その直後体の痛みを訴え動けなくなりました。レントゲンの結果、腰、足とも骨には異常は無いということで安心しましたが、その後体を動かすと痛みがありオムツ交換も大変な状態が続き、とうとうまた機能が低下してしまい今では移動も食事も全介助という状態になってしまいました。
4月現在
お陰さまで体力も徐々に回復し数メートルの歩行も可能になり、訪問入浴以外に週2回だけお風呂(シャワー)にも入れてやれる様になりました。もうほとんど以前の生活に戻りつつあります。
2002年1月末に7年ぶりに家族で風邪をひいてしまいました。
現在の医療、福祉の対応の早さには驚かされました。何もかもが即日対応で本当に助かりました。
これまで何度となくお世話になっている医療及び介護スタッフの皆様、そして一番大変な時にお買い物に行ってくれたり、雑用を引き受け助けてくれた私の大切な友人達と、私のパートナーに心より感謝しております。この場を借りて御礼申し上げます。本当に有難う御座います。
今までの私の一日
朝一番はまずはオムツ交換。オムツ交換の時には毎回陰部洗浄を行います。石鹸で洗い洗浄します。そして清拭(体を拭く)し着替えさせます。車椅子で食卓まで連れて来て、口内洗浄、顔の清拭、逆性洗剤で手洗いをし食事です。
☆これまでの(2002年1月27日まで)介護☆
いずれ透析が必要になるのなら、それまでは好きな物を食べさせてあげようとも思いましたが、出来る限りのことをして透析が必要になった時には、辛い延命治療はさせず自然に任せようと決心しました。
そこで一日3食を含む、母の食事治療をスタートさせることになりました。
母も今年9月で87歳になります。食べる量も多くはありません。そこで最近は、お野菜だけは手を抜きませんが、少量の果物は食べさせ、好きなコーヒー(豆から挽きます・インスタントは不可)も1日一杯飲ませ、食べたい物を食べさせるようにしています。それでも今のところはお陰さまで腎機能に変わりはありません。
私は7時起床ですが、まず最初に母の部屋を覗き、呼吸をしているかを確認します。母は10時過ぎに目覚めます。寝不足になると頭が壊れます。母が起きるまでの時間は私の時間でPCで遊びます。
まずトイレ誘導。お手洗いには健常者なら数秒で行けるところが、母の場合は歩行に時間がかかり、6.7分かかります。立ち上がる時もスムーズにいく時とそうでない時があります。途中で歩行が出来なくなる時もあり、そのような時は、一度休ませてからまた歩かせます。それでも歩けない時には、いつも母の側に持ち歩いている椅子に座らせ押していきます。ここまででも結構時間がかかります。
用足し後はそのまま毎朝お風呂に入れます。なぜ朝風呂かと言うと、昼間は全くない失禁が夜中には必ず有ります。いくら清拭をしても先にお風呂に入った方が1日中綺麗な気持ちの良い体でいられるでしょ。それに介護する私も綺麗な母に触るほうが気持ちが良いので朝風呂に入れます。
2度目のトイレ誘導を済ませお昼寝の為ベッドに入れ、お昼寝をしている間にお買い物に行きます。何故ならば、起こしておいて動けないのに一人で動こうとして転倒が怖いので寝かせていきます。
夕食までの間、リハビリをさせたり、しばらく母と話しをしながらテレビを見たり等など。私はお洗濯物を片付け、アイロン掛けなど雑用を済ませます。
PCでしばらく遊びますが、すぐに就寝時間になってしまいます。お風呂に入って、母の部屋へ繋がっているモニターにスイッチを入れ眠っているのを確認して、やっと休みます。母が眠ってくれない時はモニターで解るので、しょっちゅう見に行ったりするので、私も一晩お付き合いしなければならない時もあります。そんな翌日は睡眠不足になりますが、お昼寝をすることは出来ないので少々辛い時もあります。
何事もなく一日を終えるという日は少ないかも知れませんが、大きな出来事がなければ安泰です。
私が仕事で1日留守をする日は、朝9時から6過ぎの私が帰るまで、ヘルパーさんが看て下さいます。しかし、その日の為の母の着替えや2食分の食事の準備など前日は結構忙しいのです。
今の私のような生活は、本当なら精神的に結構辛いものがあるはずです。しかしストレスも感じず、今この生活が楽しいのです。良き友、良き知人に恵まれ、大勢の方々に助けられて生きています。
そして何よりも私のすぐ傍にパートナーである一番の良き理解者が居てくれることに感謝しています。
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母の介護が始まって今年で13年目に突入します。
正直私も、「早く死んで欲しい」と願った事は数えきれません。しかしこのような感情を持った後は、不思議に母が愛しく、抱きしめてやりたいほど反省し、涙を流してまた元の私に戻って行くのです。それは私の前を一瞬に通り過ぎる台風のようなもので、ずっとずっとこのくり返しで何年も過ぎて行きました。
始めてこのような感情を抱いた私は、「何という鬼のような親不孝娘だ」と思いました。しかし、この感情は介護をした方にしか理解は出来ないと思いますが、他の方々のお話を伺ってそれは誰もが経験することだと知った時、少し救われました。昔の私なら、親にその様な感情を持つことなど想像もできませんでした。でも、介護する人みんなが通る道、これからも歩いて行かなければ
ならない道なのです。時々ニュースで悲しい事件を知らせています。ほんの少しの冷静さをなくした人の悲劇が起こってしまうのです。
このような高齢者や私達の為に出来たのが介護保険です。高齢者が少しでも自立できるよう、介護者が少しでも自分の時間が取れるよう。母の場合、今では介護保険の枠を超えるほど使っています。、この制度は私達にとってとても助かっている制度です。
介護保険に付いてはまだまだ色んな問題点や課題は残っています。例えば高齢者の方がまだまだ介護保険をよく理解されていないという点です。もっともっと解りやすく説明すべきではないかと思います。母のように私がついているから利用も出来ますが、独居老人の場合は間違った受け取り方をされ、申請もされていない方も居られます。今後色んな点で改良されて行くと思います。
今では母の頭が壊れることもなくなり母も私も穏やかな日々を送って居りますが、脳が壊れ変な発言行動も出来なくなってしまったと言うことで・・・良いのか悪いのか複雑な心境です。
介護を通じて見つけた便利な商品と技
★自動体位交換付きエアーマット・ベッドで過ごされる時間の長い方にはお勧め!
てすり・一般的にトイレ・お風呂場・廊下などです。ベッドに取り付けるバーも多種多様にあります。普通のどんなベッドにも取り付け可能なバーもあります。これは体が不自由でなくても高齢者には有り難い商品です。
食器・身障者でなくても高齢になると握力も落ちます。お茶碗にお皿(傾いていて食べやすいものも有り)、コップ、
スプーンやフォーク、お箸など介護用が便利です。個人に合わせた物が選べます。エプロンなども。
ベル・車椅子に自転車のベルを付ける。危険防止に便利です。
家具スベール・マンションや室内では車椅子は大きすぎて邪魔になります。キャスター付きの椅子も危険を伴い、座り心地も悪いです。そこで食卓などの椅子などの足にカグスベールを取り付け、滑らせて移動する。大変便利、歩けない時は助かります。
使用量によっては頻繁に交換すること。ブレーキがかかり滑らなくなると危険です。
ママきてコール・赤ちゃんのお部屋に置くもので、部屋の様子が手に取るようにわかります。充電式で部屋と部屋を無線で繋ぐコードレスです。押しボタンなし。押しボタンがあってもいざという時押せなかったり、ボタンがあることも忘れてしまうような方の部屋にはお勧めです。
洗濯バサミ(大小)・これも優れものです!トイレの時お洋服やパジャマの上着がお腹の下に垂れてきます。その様な時に止めます。寝たままの状態でのシャンプー時にも、外食の時ハンカチやタオルを止めたりと色んな使い方があります。
トイレットペーパー・特に女性の高齢者。シャワートイレを使った後など、びしょ濡れになっています。昔の女性は勿体無い・・・の気持ちから、ミシン目3つくらいの紙しか取らない人が多いようです。これでは鼻もかめません。そこで、手間はかかりますが、事前にペーパー適量を一回分づつ束ねて置いておく。手も汚れず清潔です。
私も母に関しては完璧までは行かないかも知れませんが、後悔だけはしたくないので、出来る限りのことをしているつもりです。複雑な心境を経験を通して理解できたこと。介護経験を元に便利になる事、楽に出来るようになる事などをお伝えして行こうと考えて居ります。 | |
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2000年7月から12月までの半年間、講習と実習を受け、ホームヘルパー2級を取得致しました。 | |
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現在お世話になっているホームヘルパーステーション「こうほくまごころの会」との出会い。 | |
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