◆2005/4/24/00:24 母逝去◆
最終的更新が遅れておりますが、近いうちに全てを纏めてUPしたいと思っております。

・経緯
・私の一日UP
・介護歴十三年の経験から
・ホームヘルパー二級取得体験記
・地元NGOとの出会い
・その他

経緯

1992年4月22日午後4時37分。間もなく母が神戸から乗って来るひかり号が到着する時刻。私は到着ホームの12号車の前で 母の帰りを待っていました。母は横浜に転居してから友人がいない為寂しいのか、神戸の友人の所を中心に5泊6日前後の日程で、 年に2回ほど神戸に遊びに行くのが習慣となっていました。

もうすぐ列車が入ってくる頃と思った時、母の名前を告げ「御家族の方駅長室までお越し下さい」というアナウンスが入りました。 この瞬間「何か異変が・・・」と思い、駅長室へ飛んで行きました。 そこで告げられた言葉が「お母様は次の列車には乗ってらっしゃらないようです」・・・理由は何も解らず、只車掌さんが 「新神戸駅から連絡が入った」と。当時73歳だった母が神戸に行く時は、私は座席に座った事を確認して見送り、 神戸では友人とその娘さんがホームまで出迎えてくれて、帰りは私と同じ様に席に座らせ、見送ってくれていました。 母が一人になるのは乗車している間だけなので安心していました。

私はすぐに母の友人の家に連絡を取ったところ、次のようなことになっていました。 何があったのか母は神戸から乗って京都で下車してしまったのです。そして駅構内をうろついている所を御親切な方(Aさん)に お声をかけて頂いたようでした。Aさんは母の様子が変なので心配になり、色々と母に尋ねて下さったのですが、 母の答えは身元も解らないくら要領を得ないものであったようです。そうこうしているうちに、友人が母の荷物を送ってくれた 宅急便の半券を母のバッグのポケットから見つけ出して戴き、それを見て取り合えず神戸の友人の家に連絡をして下さいました。 Aさんは待ち合わせの御約束の時間を変更して母を新神戸駅まで送って下さいました。

その時の母はまだしっかりとしていたようで、Aさんへの切符代やお礼などを忘れずにお渡ししていたと、後でAさんから 聞かされました。そしてAさんのお陰で途中で倒れることなく無事に、神戸の友人の家まで辿り付けました。

私達にとって、Aさんは本当の命の恩人です。あの時Aさんが母にお声をかけて下さらなかったら、どうなっていた事かと 想像しただけでも体中の力が抜けてしまいそうです。

Aさんはお若いOL風の方で、その後すぐに御結婚され、1年後に御出産されました。母のような人を見かけても普通知らぬ顔して 通り過ぎてもおかしくない殺伐とした世の中、あんなにお若い方が暖かい心で母に接してくださった事を心より感謝致しております。 そして友人の家へ着いた頃には、もう母の足も動き難くなり、食事をする時も手が口までとどかず、口をお箸に近づけるといった 風になっていたようです。その症状を電話で母の友人に聞いた時、遊び疲れだろうと軽く考えていました。今思えば、もうその時 すでに母の体は、脳内出血の為異変を起こしていたのです。

私は少しでも早いほうが良いと思い、夜行に乗って神戸に向かい翌朝友人宅へ着きました。そして母の様子を見ましたが、 まだ事の重大性には気が付かず、友人宅にそのまま母を預け、神戸、大阪、岡山での仕事を済ませて、翌日すなわち最初の症状が 出てから2日目に新幹線で連れて帰りました。 新横浜駅に到着する頃、母を支え歩いていた私に、同じ車輌の初老の御夫婦の奥様が声を掛けて下さいました。「大丈夫ですよ! 主人もこの様に旅行が出来る様になりましたから」と。しかし私は、またしてもその意味を把握出来なかったのです。 そして荷物を降り口まで運んでくださいました。そして病院に直行しました。

検査の結果脳内出血を起こしており、直ちに入院することになりました。不幸中の幸いとでも申しましょうか、 出血はその1回の一瞬で止まっていた様で手術の必要はないということでした。只、「右半身麻痺、言語障害、痴呆など」 後遺症として残ると医師から伝えられました。そして数日でICUから普通の病室へ移り、治療とリハビリの入院生活が 始まりました。

運良く母の機能回復訓練の為のリハビリを担当して下さった先生は、リハビリテーションの中でも一番の先生で、先生は母の リハビリと平行して私にも筋肉の仕組み、名称、機能、など色々と教えて下さいました。

そして私も必ず母のリハビリに付き合って一緒に頑張っていました。数回のリハビリを行ううちに、私の仕事としているダンスの エクササイズと似通った部分が多いことに気が付きました。先生がお忙しそうになさっている時に、私が覚えたリハビリを 母にさせていたところ、先生が「もう娘さんに任せて良いですね?」と言われ、それ以来先生がお忙しい時は順番が来るまで 私が母のリハビリをするようになりました。

病室は6人部屋で、同じ様なお年寄りや怪我で入った若い方等など。出入りはあったものの長期入院はやはり母のような脳神経外科 関係の患者さんが多く、母の病室へ一日2度通っていた私に他のお年より達は、私の来院を毎日待って下さるようになりました。

そのうち全く言葉が話せないおばあちゃまの「ア〜ア〜」だけの言葉も私には何が言いたいのか理解できる様にもなりました。 母の部屋へ度々通って行くのは私だけで、他の御家族の方は多分お忙しかったのでしょう、お洗濯物の交換が済めばお帰りになる という状況が殆どでした。

そんな状態なので、自然と他の患者さんのお世話もするようになり、面会時間が終わる頃になると母は、「早く帰ってラッキーに ご飯を食べさせて」と毎日言います。しかし他の患者さん達は「もう帰るの?明日もくる?何時に来るの?」等など皆さんから 尋ねられ、私はいったい誰の娘なの?と毎日のように母達と笑っていました。

そして母は杖を使っての歩行が出来る様になり、病室のお仲間の方々も順次退院されて行きました。ただ一つ私が 驚いた事は、病院側から「そろそろ退院を・・・」と言われ「良かった!」と思い「いつ連れて帰れますか?」と尋ねたところ、 病院側は「家に連れて帰られるのですか?」「転院はなさらないのですか?」「転院されるなら他の病院を紹介します」と言われました。 その時私は問われてる意味が把握できなかったのですが、他の方々は家ではお世話が出来ないので、遠くの他の病院に転院される ことが多いと後で知りました。

半年の入院生活の後、やっと退院出来る様になりましたが、医師から告げられた通りの後遺症は残りました。
今でこそ私には色んな知識が入っていて、すぐにこのような症状は脳だと気が付くでしょうが、当時私の環境ではその様な経験者も なく、話題すら聞いた事がありませんでした。あの時もっと早く手を打っていたら、新幹線で連れて帰るよりすぐに神戸の病院へ 連れて行けばよかった。そうすればこのような状態にはならなくてすんだのかも知れないと悔やんだこともありました。 でも、母の脳内出血は一時的なものであったと医師から聞かされ、私は医師のその言葉で少し救われた思いがしました。

しかし異変を感じた時には、ただの疲れと甘く考えず、1秒でも早く病院へ行く事。何もなければそれで良し、何か有れば少しでも 早いほうが何よりと考えます。脳の場合だけではないでしょうが、数分の処置の差が命にかかわると云う事を身近に感じ、 無知の恐ろしさを嫌と言う程思い知らされた経験でした。

 

私の一日

 

★回復
★up2004年9月のお祝い

母に私の気持ちが通じたのか日を増す毎に体力が回復してきた。最後まで諦めずにケアをしてきた甲斐があった。
9月の敬老の日、そして米寿を迎える25日のお誕生日は諦めていたが、元気に迎えることができた。
嚥下機能があんなに低下していたのが嘘のように、お彼岸のおはぎも2個、昨日のお月見団子も2個もペロッと食べてくれて、 こんなに嬉しい気持ちになったのは久しぶり。
今の私は今までにない「やった〜!」という安堵感でいっぱい。
今後また異変は起きることは間違いない。しかしまた次も同じことをしていると思う。精一杯頑張れば母にも伝わり元気を取り戻してくれる。 それでもだめなら、その時は静かに見送ろう。

初公開の母と私の写真…敬老会&米寿を迎えたバースデー。(米寿のお祝い色は黄色)

   

★異変

2004年5月8日に脳梗塞

母を起こしオムツ交換をしようと足を立たせた途端にストン!と右足が下へ伸び、右手はロープのようにブラブラ状態。驚いて訪問看護の看護士さんに電話をかけ、救急車で病院へ。診断の結果レントゲンには写らないが小さい梗塞が起きているとのこと。私の看たところ母の状態は手足の麻痺以外は変化がなく、家に連れて帰ると申し出たが許可が下りず、救急医に土曜日でもあり主治医が来られる月曜日まで入院を要される。翌朝私が病院へ行くと看護士さんからお話があると言われ、主治医が夜中に病院へ来られ、母の写真を御覧になり直ぐに退院して良いとのこと。そして直ぐに退院。
母の右手は何とかお箸やフォーク等が持てていた。それが全く利かなくなり今度は左手を使うようになる。それでも元気に落ち着いた状態が続いていた。

数日経って

タンがからむような咳が出て発熱。風邪ではなく炎症からの発熱らしい。その日を堺に母の状態は全てにおいて機能低下がみられる。
体温も微熱が平熱になる。喉だけの炎症ではなく肺の方にも炎症があるようだ。同時期に嚥下機能(飲み込み)が低下する。
その後は液体もトロミを付け、食べ物は食べ易く喉の通りが良いように工夫する。それでも1回の食事に要する時間は朝食に2時間、夕食に3時間がかかるようになる。口を開きもう要らないというまでは食べさせてやる。気が遠くなる作業ではあるが口から入るのが一番良い。口から入る限り命は繋ぎ止めることはできると考えるからこの大変な作業も苦にならないでできる。
入院すればすぐに鼻から胃にチューブを入れ流動食を入れるか、胃ろう(手術で胃に穴を開けそこから栄養分を入れる)になる。
叔母もそうであったように、これは本人にとっては大変苦痛を伴い見てはいられないこと。如何に本人がかわいそうかよく理解できる。

最後の決断

先日、在宅医療の医師から食べられなくなった場合の最終的な治療について話が持たれた。叔母も友人のお父上も鼻チューブから胃ろうになる。自宅に帰ってから家族がチューブの取り換えを行う事になる。一つ間違えればチューブは胃に届かず誤って肺に入る危険も伴う。それが恐ろしくて皆胃ろうにするようだ。
知人のお母様は鼻チューブで1年延命したようだ。しかしその1年がお母様にとって1番かわいそうな1年であり、それを見ている家族にとっても1番辛い1年であったと言う。
私も今まで色んな人達を病院で見、知人達の意見を聞き、そして何より母の意見を尊重することに。母に説明した結果どれも嫌だと顔をしかめて首を横に振る。
一度医療行為を始めたら、どんなに辛くても止めることはできない。
数日間悩み抜いた結果、どこかに痛みがあれば取り除いてやらなければならないが、それ以外の延命治療は何も行わないと決心する。それは母の命を短くすることになる。しかしその医療を行って今よりもっと元気に過ごせるようになるのなら喜んでお願いするだろう。今現在母には苦痛は全くない。それなら最期まで苦痛を知らず楽に自然体で逝かせてやれるならその方が良いかも知れないと決心する。大変苦しい選択。土壇場になって私の決心が鈍ることも・・・しかし多分・・・・・。
今は母の笑顔と、美味しいと言ってくれる一言が私の力にもなっている。そして母と過ごせる今この時を大切にしたいと思う。

9月現在

努力の甲斐あって、母は順調に体力を取り戻しつつある。
食事もしっかり噛んで食べられるようになり、水分もスムーズに飲めるようになり時間もずいぶん短縮してきた。食事前の準備体操の時に調子が悪い時は動かなかった舌も順調に動いている。舌が動き唾液が出るようになると食事も進む。 舌も綺麗になる。もちろん嚥下機能回復と共に、むせることもなくなりゴロゴロした咳もなくなる。したがって炎症があり続いていた微熱も下がり安定してきた。
ほとんど今は少し前の状態に戻ってきた。この分だとまた敬老会に連れて行ってやれそうだ。
母はもう逝きたいのではないか。私の頑張りはエゴだと言う人もあったが、少しづつでも時間をかけて食べさせ世話をした甲斐があった。こんなに元気になってくれた。 母も私を信じてよく頑張ってくれたと思う。次に何かが起こった時にまた頑張れるのだろうか。

9月現在の私の一日

母の起床後、オムツ交換(石鹸で洗浄)車椅子は狭い所では使い難い為、母が普段座っていた椅子にストッパー付きのキャスターを付けてその椅子を利用している。(ダンナちゃまの考案)
改造車椅子で洗面所へ連れて行き、先ずは手洗い(洗面所で方向転換が出来ないため、一度廊下に出て方向転換し反対の手を洗う。)次に口内洗浄、洗顔、(バスタオルを首から掛け、口内洗浄に使う受け皿を受け、コットンに洗顔石鹸をつけて洗顔後、コップにお湯を入れ数度顔にかけ石鹸を洗い流す)目の周りもコットンで綺麗に拭く。朝夕2度食前に行っている。
約2時間ほどかけ朝食を済ませる。しばらくはテレビを見てベッドへ移す。ベッドから、椅子からの移動は全介助になった為大変重くなった。しかしヘルパーの実習で体験したことが役立っている。
ベッドへ入るとすぐに眠る。
6時ごろ洗面所から食卓へ。しばらく座らせた後夕食。約3時間かかる。しばらく座らせベッドへ。
これが今の私の一日。
この間に、数回の水分補給とオムツ交換。週3回の訪問入浴、訪問看護(看護士)、医師の訪問、家事等など雑用もあるが、手抜きも・・・。
やっと何とか一日のリズムが落ち着き、母の状態が今以上悪くならない限りこのリズムでやって行こう!

2004年2月に

母の状態は12年前からみて、2年前に風邪をひいて発熱後機能低下が見られ、やっと70%回復し安定していました。ところが今年2月にお薬を飲んでいるにも係わらず2日3日と便が出なくなりました。水分補給も十分に足りていいました。そこでいつもの様にポータブルに座らせ、毎日やっているお腹の運動などを少し多めにやったところ、すっきりと便通がありました。しかし、その直後体の痛みを訴え動けなくなりました。レントゲンの結果、腰、足とも骨には異常は無いということで安心しましたが、その後体を動かすと痛みがありオムツ交換も大変な状態が続き、とうとうまた機能が低下してしまい今では移動も食事も全介助という状態になってしまいました。
2ヶ月経過し今やっと痛みもなくなりましたが、良かれと思ってやったことが、母の体には大変な負担だったのだと気づきました。
職業柄筋肉痛には慣れている私からみるとただの筋肉痛でも、母にとっては大変な痛みだったのです。体力はまだまだ回復できずにおりますが、今は無理なリハビリは止め私が少しづつ様子を見ながらやっている状態です。
今では食事の量も徐々に増え体力の回復を待っています。

4月現在

お陰さまで体力も徐々に回復し数メートルの歩行も可能になり、訪問入浴以外に週2回だけお風呂(シャワー)にも入れてやれる様になりました。もうほとんど以前の生活に戻りつつあります。
ただ、医師の診断、訪問看護の看護婦さん、リハビリ、入浴は引き続き在宅で行っております。
この2ヶ月と言う時間は今まで母を介護してきた中でも、一番神経を使った日々が続きました。私の意地で何とかもう一度元気にしてやろう!と頑張った甲斐がありました。

2002年1月末に7年ぶりに家族で風邪をひいてしまいました。
母は39度の熱が2日半続きましたが、普段からの食生活などが幸いし体力が有った為、肺炎にもならず熱が下がり助かりました。しかし、高熱でかなりエネルギーを使ったようで、蓄えが無くなってしまいました。体力の回復には時間がかかりそうです。
今では、介護用電動ベッドも入り、毎日入れてやっていたお風呂も無理になり「訪問入浴サービス」をお願いしました。病院へも行けなくなってしまったので先生にご相談申し上げた結果、「10年間今まで通って連れて来てくれたのだから」とその場で「在宅医療」と24時間体制の「訪問看護」を申し込んで下さいました。ご存知ない方の為に、「在宅医療」とは通院できない患者さんの為のもので、異変があった場合先ず看護士への電話連絡で指示をして下さいます。そして定期的に医師が自宅を訪問。「訪問看護」とは24時間体制で受け入れて下さり、定期的に看護士が訪問。内容は3種に分かれる。「訪問入浴サービス」はベッドの横でお風呂に入ることができ, 母は週3回お世話になっています。本人の負担が軽く済み清潔を保て助かっています。

現在の医療、福祉の対応の早さには驚かされました。何もかもが即日対応で本当に助かりました。

これまで何度となくお世話になっている医療及び介護スタッフの皆様、そして一番大変な時にお買い物に行ってくれたり、雑用を引き受け助けてくれた私の大切な友人達と、私のパートナーに心より感謝しております。この場を借りて御礼申し上げます。本当に有難う御座います。

今までの私の一日

朝一番はまずはオムツ交換。オムツ交換の時には毎回陰部洗浄を行います。石鹸で洗い洗浄します。そして清拭(体を拭く)し着替えさせます。車椅子で食卓まで連れて来て、口内洗浄、顔の清拭、逆性洗剤で手洗いをし食事です。
今までは洋食で、自分で食べてくれましたが今は全介護です。嚥下障害(飲み込み難い)も出始めたので、茹でこぼした野菜入りお粥を食べさせています。あとはその時によってお惣菜は違います。お薬も全て粉になったので、おかずやデザートのプリンやヨーグルトに混ぜて飲ませる。食後口内洗浄をし、しばらく起きていると疲れるようなでベッドへ移動。テレビを見たりして眠ります。
10年前に寝たきりになると言われ、少しでも普通の生活をさせてやろうと今日まで頑張ってきました。こんなことで負けられません。どこまで回復できるか解りませんが、少しづつリハビリをして、またお風呂に入れてやれる日が来ることを今は願っています。そして母と過ごせる今この時を大切にしたいと思っております。

☆これまでの(2002年1月27日まで)介護☆
母は18年前に右の腎臓の全摘手術をしています。そのため8年ほど前から腎機能が悪くなり、このままだと1、2年で人工透析になると言われました。
友人知人のお父様やお母さまの時のお話しなどを聞いたり、病院での高齢者の透析がどんなに辛く大変なものかという事も見聞きし知識だけはあり、もしも人工透析になったら・・・と考え悩みました。

いずれ透析が必要になるのなら、それまでは好きな物を食べさせてあげようとも思いましたが、出来る限りのことをして透析が必要になった時には、辛い延命治療はさせず自然に任せようと決心しました。
その決心をするまでどんなに悩み考えたか解りません。悪くなっても治療を受けさせないと云うことはとても罪悪感があり、考える度に何度も何度も涙を流しました。

そこで一日3食を含む、母の食事治療をスタートさせることになりました。
カリウム・リン等を少数に抑え、塩分は1日7gまで、たんぱく質などは1日40gまで、etc...と云うような食事をさせています。
外食も出来ないので、始めはこのような食事作りは大変でしたが、チョット二手間?はかかりますが、慣れれば結構出来る物です。
野菜・果物等はカリウムが多い為、野菜類はどんな調理も一度茹でこぼしをしてから使います。もちろん生は食べてはいけません。カリウムが多い為、果物もいただけません。可哀相です!
しかしお陰様で、検査時の数値も全く変わりなく、時には良くなっていることもあり、今では「年相応の腎臓です」とお医者さまから言われるようになりました。

母も今年9月で87歳になります。食べる量も多くはありません。そこで最近は、お野菜だけは手を抜きませんが、少量の果物は食べさせ、好きなコーヒー(豆から挽きます・インスタントは不可)も1日一杯飲ませ、食べたい物を食べさせるようにしています。それでも今のところはお陰さまで腎機能に変わりはありません。

私は7時起床ですが、まず最初に母の部屋を覗き、呼吸をしているかを確認します。母は10時過ぎに目覚めます。寝不足になると頭が壊れます。母が起きるまでの時間は私の時間でPCで遊びます。

まずトイレ誘導。お手洗いには健常者なら数秒で行けるところが、母の場合は歩行に時間がかかり、6.7分かかります。立ち上がる時もスムーズにいく時とそうでない時があります。途中で歩行が出来なくなる時もあり、そのような時は、一度休ませてからまた歩かせます。それでも歩けない時には、いつも母の側に持ち歩いている椅子に座らせ押していきます。ここまででも結構時間がかかります。

用足し後はそのまま毎朝お風呂に入れます。なぜ朝風呂かと言うと、昼間は全くない失禁が夜中には必ず有ります。いくら清拭をしても先にお風呂に入った方が1日中綺麗な気持ちの良い体でいられるでしょ。それに介護する私も綺麗な母に触るほうが気持ちが良いので朝風呂に入れます。
そして母の朝食。母の食事が終り投薬を済ませたら、後片付けと2度目のお洗濯、お掃除をします。

2度目のトイレ誘導を済ませお昼寝の為ベッドに入れ、お昼寝をしている間にお買い物に行きます。何故ならば、起こしておいて動けないのに一人で動こうとして転倒が怖いので寝かせていきます。
帰ってきてから母が起きるまでの時間が、短時間ですがまた私の時間です。お昼寝から目覚め、しばらくしてから起こします。そして日によって違いますが、遅い昼食かおやつを食べさせ、投薬。トイレ誘導を済ませます。

夕食までの間、リハビリをさせたり、しばらく母と話しをしながらテレビを見たり等など。私はお洗濯物を片付け、アイロン掛けなど雑用を済ませます。
夕食の準備に取り掛かりながら母の見守り。ベッドに入っているとき以外は常に見守りが必要。7時頃に母に夕食を食べさせます。何とか自分で食べられるのですが、見守りながら一人では寂しいので私もお付き合いをします。
母の食事が終わって、旦那ちゃまの帰宅を待って早くて8時頃、もっと遅くなることもありますが、私たちの食事を始めます。その間母はテレビを見たり、私達の会話に耳を傾け微笑んでいます。後片付けが終わるのは平均10時頃です。
母に夜の投薬、清拭をしベッドに入れます。全てを片付け11時前。ここまで来ればやっと私の一日も終盤を迎えます。ただ、この後母のトイレタイムにはまた付き合わなくてはいけませんが、これからが私の時間!

PCでしばらく遊びますが、すぐに就寝時間になってしまいます。お風呂に入って、母の部屋へ繋がっているモニターにスイッチを入れ眠っているのを確認して、やっと休みます。母が眠ってくれない時はモニターで解るので、しょっちゅう見に行ったりするので、私も一晩お付き合いしなければならない時もあります。そんな翌日は睡眠不足になりますが、お昼寝をすることは出来ないので少々辛い時もあります。

何事もなく一日を終えるという日は少ないかも知れませんが、大きな出来事がなければ安泰です。
こちらの言っていることは全て理解が出来ますが、時には頭が壊れる事があります。
その時だけは本当にどうにもならず、ただ時間が経過するのを待つしかありません。その様な時には何を言ってもどうにもならない。一番辛い時間です。

私が仕事で1日留守をする日は、朝9時から6過ぎの私が帰るまで、ヘルパーさんが看て下さいます。しかし、その日の為の母の着替えや2食分の食事の準備など前日は結構忙しいのです。
そして当日帰宅後すぐにお風呂に入れ、食事をさせて寝かせると、やっとひと息入れられます。それまでは戦争です。でも一週間に一度好きなダンスの仕事をさせてもらって息抜きができている私は幸せです

今の私のような生活は、本当なら精神的に結構辛いものがあるはずです。しかしストレスも感じず、今この生活が楽しいのです。良き友、良き知人に恵まれ、大勢の方々に助けられて生きています。

そして何よりも私のすぐ傍にパートナーである一番の良き理解者が居てくれることに感謝しています。

 

介護歴十三年の経験から

 

母の介護が始まって今年で13年目に突入します。
10年を過ぎて今改めて振り返ると、数え切れない沢山の壁にぶつかり、沢山の出来事がありました。そして数年前からやっと穏やかに母を看ることが出来るようになりました。
それでも時には頭がパニックになることも有りますが、別の私が冷静さを取り戻してくれます。それは私が我慢をするのではなく、「病気がさせること」と母の病気を理解する事が出来る様になったからでしょう。
身障者や痴呆の親を持った子供の気持ち。老老介護の老夫婦。介護する人の心に殺意が沸く気持ち。痛いほど手に取るように良く解ります。

正直私も、「早く死んで欲しい」と願った事は数えきれません。しかしこのような感情を持った後は、不思議に母が愛しく、抱きしめてやりたいほど反省し、涙を流してまた元の私に戻って行くのです。それは私の前を一瞬に通り過ぎる台風のようなもので、ずっとずっとこのくり返しで何年も過ぎて行きました。

始めてこのような感情を抱いた私は、「何という鬼のような親不孝娘だ」と思いました。しかし、この感情は介護をした方にしか理解は出来ないと思いますが、他の方々のお話を伺ってそれは誰もが経験することだと知った時、少し救われました。昔の私なら、親にその様な感情を持つことなど想像もできませんでした。でも、介護する人みんなが通る道、これからも歩いて行かなければ ならない道なのです。時々ニュースで悲しい事件を知らせています。ほんの少しの冷静さをなくした人の悲劇が起こってしまうのです。
私も、母の首に手をかけた事も何度かありました。そして自分も死のうと。でも、やはりもう一人の私が止めに入るのです。

このような高齢者や私達の為に出来たのが介護保険です。高齢者が少しでも自立できるよう、介護者が少しでも自分の時間が取れるよう。母の場合、今では介護保険の枠を超えるほど使っています。、この制度は私達にとってとても助かっている制度です。 介護保険に付いてはまだまだ色んな問題点や課題は残っています。例えば高齢者の方がまだまだ介護保険をよく理解されていないという点です。もっともっと解りやすく説明すべきではないかと思います。母のように私がついているから利用も出来ますが、独居老人の場合は間違った受け取り方をされ、申請もされていない方も居られます。今後色んな点で改良されて行くと思います。

今では母の頭が壊れることもなくなり母も私も穏やかな日々を送って居りますが、脳が壊れ変な発言行動も出来なくなってしまったと言うことで・・・良いのか悪いのか複雑な心境です。

介護を通じて見つけた便利な商品と技

★自動体位交換付きエアーマット・ベッドで過ごされる時間の長い方にはお勧め!
褥瘡(床ずれ)予防にはこれは優れ物!1ヶ月寝たきりになっても褥瘡にはなりませんでした。2時間かけて左右の横向き・正面・を自動でくり返し行います。角度も3段階に分かれ、フラットのままでも使用可能。マットの凸凹(デコボコ)も自動で凹凸(ボコデコ)に代わる為、長時間同じ個所がマットに接触しません。介護用ベッドでなくても使用できます。

てすり・一般的にトイレ・お風呂場・廊下などです。ベッドに取り付けるバーも多種多様にあります。普通のどんなベッドにも取り付け可能なバーもあります。これは体が不自由でなくても高齢者には有り難い商品です。

食器・身障者でなくても高齢になると握力も落ちます。お茶碗にお皿(傾いていて食べやすいものも有り)、コップ、 スプーンやフォーク、お箸など介護用が便利です。個人に合わせた物が選べます。エプロンなども。

ベル・車椅子に自転車のベルを付ける。危険防止に便利です。

家具スベール・マンションや室内では車椅子は大きすぎて邪魔になります。キャスター付きの椅子も危険を伴い、座り心地も悪いです。そこで食卓などの椅子などの足にカグスベールを取り付け、滑らせて移動する。大変便利、歩けない時は助かります。 使用量によっては頻繁に交換すること。ブレーキがかかり滑らなくなると危険です。

ママきてコール・赤ちゃんのお部屋に置くもので、部屋の様子が手に取るようにわかります。充電式で部屋と部屋を無線で繋ぐコードレスです。押しボタンなし。押しボタンがあってもいざという時押せなかったり、ボタンがあることも忘れてしまうような方の部屋にはお勧めです。
本人の部屋に本体(電源コード付きで小さいです)を置き、別室に受信機(ほぼリモコンサイズ)を置くだけ。いびきは勿論、寝息まではっきり聞こえる優れものです。

洗濯バサミ(大小)・これも優れものです!トイレの時お洋服やパジャマの上着がお腹の下に垂れてきます。その様な時に止めます。寝たままの状態でのシャンプー時にも、外食の時ハンカチやタオルを止めたりと色んな使い方があります。

トイレットペーパー・特に女性の高齢者。シャワートイレを使った後など、びしょ濡れになっています。昔の女性は勿体無い・・・の気持ちから、ミシン目3つくらいの紙しか取らない人が多いようです。これでは鼻もかめません。そこで、手間はかかりますが、事前にペーパー適量を一回分づつ束ねて置いておく。手も汚れず清潔です。

私も母に関しては完璧までは行かないかも知れませんが、後悔だけはしたくないので、出来る限りのことをしているつもりです。複雑な心境を経験を通して理解できたこと。介護経験を元に便利になる事、楽に出来るようになる事などをお伝えして行こうと考えて居ります。

 

ホームヘルパー
2級取得体験記

 

2000年7月から12月までの半年間、講習と実習を受け、ホームヘルパー2級を取得致しました。
母の介護に役立てばと思い、週1回6時間授業の講座を受講致しました。
そこで学習し得た事、老人ホームでの実習を元に、私が感じたことなどを書きとめておこうと思って居ります。
準備中

 

地元NGOとの出会い

 

現在お世話になっているホームヘルパーステーション「こうほくまごころの会」との出会い。
この会と出会って、私は本格的介護に取り組むことが出来る様になりました。
介護のプロとは・・・ヘルパーさんから学んだお話し。
準備中

 

その他

 

準備中

♪BGM:G.Bizet ノクチュルヌ Time7'46"♪