「信州の鎌倉」塩田平と塩田城

ここでは、写真を使って現在の塩田平を紹介します。

塩田の館

 地元の物産品を売ったり、食堂、小さな資料館もあります。塩田城の資料も展示してあります。

もともと手打ちそばがありましたが、最近「皿そば」がメニューに加わったとのことです。この「皿そば」とはもともと兵庫県出石町の名物なのですが、出石にそばをもっていったのが、上田から出石に移った仙石政明に始まる仙石氏であったということで、この塩田の館でも「皿そば」を出そうということになったようです。
ちなみに上田市と出石町は、姉妹都市の関係にあります。

塩田の館と塩田城やその他の関係地との位置関係は、左の写真の通りです。

塩田城の全景
塩田城のある独鈷山(どっこさん)は、特徴のある凸凹した山容をもちます。その北山麓の弘法山から塩田平へ形づくられた扇状地上に塩田城とその城下町があります。

塩田城内堀
塩田城のある東前山の内堀地区です。ここには塩田城跡の碑が立っています。
この石碑の建っている全面に上幅10mという大きな横堀が掘られ、仕切られています。石碑の場所は高く積み上げられた土塁の上ということになります。これより山側がいわば城の中心部ということになりますが、最上部までは20段を越える段郭が確認されています。

大空堀全景
左手の土塁前面には幅14mという大横堀が存在し、いわゆる城の中心部と政庁部とを区切っていました。
この横堀についても発掘調査が行われており、その結果、堀の断面はW字形をしていることが判っています。この形は鎌倉期にまで遡ることのできる古い形式とのことです。

横矢?
この大横堀に向かって、出っ張りが飛び出ています。横矢をかけるためのものでしょうか。ただ、戦国期に入らないとこの思想は生まれないので、単なる櫓台なのかもしれません。

塩田城の入り口
大横堀と土塁の一部が切れて、ここより塩田城中枢部に入ります。
現在はまっすぐに城の真ん中を通る道が登っています(写真の看板裏を左に進む道)。1段目の段郭に向かって斜めに入る道もあります(写真まっすぐの道)。一回斜めの桝形を形成し、段郭を経て中枢部に入ったというのは考えすぎでしょうか。ここは、大手門といってよい場所なのですが。

一番下の段
大横堀に面する一番下の段です。往事には横堀に面する縁には塀や柵が立ち、所々に櫓や物見台が立っていたでしょう。かなり広い段郭で、道をはさんで両側にほぼ同じ大きさの平地が広がっています。

塩田城の中央道路
塩田城の中心をまっすぐに登っていく道です。傾斜が急になっても、曲がらないでまっすぐ登っていきます。
この道の両側に石垣や斜面を削平する事により段郭が形成されています。
これら段郭と道の関係から、この道は後世にできたものではなく、当初から城の中央を通っていたものと考えられています。

正庁跡推定地
下から数えて4段目の段郭ですが、ひときわ広く、また段の高さが高くて整形が整っているなどの理由で、この段にいわゆる正庁、守護所があったと推定されています。
この推定に基づき発掘調査が行われました。その結果、建物の礎石と、陶器や将棋の駒などの遺物が見つかりました。しかしそれらの遺物はすべて室町期のものといわれ、村上氏統治時代のものであることがわかっています。

発掘地点に立つ案内板

塩田城の段郭
さらに奥に向かって何段もの段郭が続きます。上に上がるにつれ、規模は小さくなります。

三島社
段郭の上部にはこの三島社がまつられています。塩田城に北条氏の拠点、守護所があったという根拠の一つは、この三島社が塩田城の最上部に置かれているということです。伊豆の神様がなぜ、この信州の山奥にまつられているのか。何の関係もない村上氏がわざわざ伊豆から勧請するとは考えられず、伊豆が発祥の地であり、因縁深い北条氏によって、守護所鎮護のためこの城の最上部にまつられたということです。

坂虎口
三島社のある曲輪の斜め横をさらに山奥に向かって道が延び、上の曲輪に向かいます。
北条氏により構築された塩田城は、最上部が三島社のある曲輪だったのが、村上氏の統治時代にさらに上部に曲輪が設けられたというのが、最近の説です。

村上氏時代の切り岸
三島社の上、次の曲輪までの高さは10mを越えていて、段と言うよりは切り岸です。いわゆる山城の様相を呈してきます。

竪土塁
上の切り岸と反対側の斜面には竪土塁が造られていて、上に登っています。これを見ても戦国期に近い山城のパーツが見られます。

虎の口
塩田城の最上部には、石垣も見られます。この曲輪は特に虎の口と呼ばれています。もちろん村上氏の時代に造られた曲輪です。

石垣による桝形
ここでは、ほかの山城でもめったに見られない石垣づくりの桝形が形成されています。

虎の口の桝形
上の写真で1回曲がった道はこの角でもう一回曲がって曲輪に入ります。いわゆる2回曲がりの桝形であり、それを石垣を使って形成していることは非常に特殊です。この曲輪だけ近世の築城技術にて造られています。

虎の口曲輪
この曲輪はあまり広くなく、大切な建物があったとも考えられません。曲輪内には井戸があります。
というより、城の一番奥の最上部の曲輪が「虎の口」と呼ばれていることからして変です。虎の口つまり虎口は、城の入り口を現すからです。
村上氏の時代、それも戦国期近くになると、大手を北側のこれまでの城下町のあった低地側では無く、山側の南側に想定していたことになります。つまり敵は下から攻めあげてくるのではなく、上から山を越えて攻め下りてくると考えていたことになります。
これは、あながち間違いではなく、甲斐の武田軍は塩田を攻めるに北側の低地から攻めようとして2度失敗し(上田原と砥石城)、結局は山向こうの依田窪の城を攻め落としつつ南側からせまって、ようやく塩田を落としました。

北条国時の墓
塩田城の一番上の曲輪に北条国時の墓があります。北条国時は北条義政の跡を継いだ塩田北条氏2代目。
鎌倉幕府滅亡の時、北条国時は息子俊時とともに鎌倉道を駆け、鎌倉の防衛に向かいました。そして北条一門とともに東勝寺にて自害して果てます。
この墓は江戸時代になって地元有志によりこの地に建てられた供養塔のようなもので、それまで北条氏というものが地元に慕われていたことを示します。

西の砦あと
虎の口より西の尾根の頂にある砦跡に登ることができます。
西の砦は尾根の頂に本郭をおき、麓に向かって3段の郭を設けています。
写真は3の郭から上を見上げたところで2の郭、さらにその上に本郭が見えます。

西の砦2の郭から本郭
高さは約8mくらいあります。

西の砦本郭
山頂を削平し平らにしている。尾根がやせているため、細長い形をしている。

西の砦本郭 堀切
本郭もただ平らなわけでは無く、区画に分かれていたようで、うっすらと堀切らしき溝が横切っていたりする。

西の砦 櫓台
本郭の山側は一段高い場所がある。自然地形かもしれないが、櫓か物見台が立っていたと考える人もいる。

西の尾根の状況
尾根づたいに登って弘法山を目指したが、尾根はどんどんやせて、岩の絶壁が立ちふさぐようになった。
この絶壁の上に保塁を設けたのだろう。慎重に道を見つけてよじ登ることとする。

西の尾根 保塁跡
尾根は完全に岩尾根と化し、両側がスッパリと切れ落ちるようになった。所々に岩が立ちふさがるようになっていて、この上はやはり保塁のようなものがあったのだろう。道を踏み外すとたちまち20m以上落下するような絶壁が続く。

西尾根より城跡を見下ろす
恐る恐る、保塁跡に腰を下ろししばし休憩。塩田城址を見下ろす。谷間の林一面が城跡。
林の切れ目に前山寺と三重の塔が見える。その向こうの丘の上には無言館の姿も見える。

西尾根 保塁跡2
尾根はどんどん細くなり、写真のような場所に出た。両方の斜面ともスッパリと切れ落ちた絶壁のため、ここは正面の頂まではい上がるしかない。正直言って怖い。ザイルでも持ってくればよかった。
とにかく、このルートを歩く人は、必ず足周りは本格的にしなくてはだめです。私はトレッキングシューズで入ったので何とか通過できました。手には革手袋が必要です。岩で手を切ります。また手を使わないと登れません。両手両足のうち3点支持を確保し、通過することが大切です。この文章を読んで何の事だか判らない人は、この道に入らないことです。

弘法山より西の砦
ようやく弘法山に近づき、振り返ってみると西の砦がはるか下に見えます。

弘法山砦 保塁
弘法山も岩が多く、尾根筋を防御するには十分です。

弘法山砦 二の郭
弘法山は昔から修験者の道場として開かれた山です。山道が厳しいのには訳があるのです。
この平地は2の郭として機能しますが、岩陰には観音像や不動明王像が置かれ、霊場の雰囲気いっぱいです。
正面の岩も、山伏が片足かけて法螺貝を吹いたら絵になると思います。いや、そういう場所のはずです。

弘法山砦 本郭
弘法山の山頂も削平されています。城跡を真正面に見下ろすこの山に、砦を築くのは当然といえば当然のことで、詰めの城といってもよいと考えます。
ここまでくるのに、大変な思いをした事を考えれば、まさに難攻不落の要害の地といえます。

弘法山砦より塩田城を見下ろす
左に西の砦、右手前に東の砦、それに挟まれた谷間の林一帯が塩田城跡になります。それに続く集落が東前山、塩田城の城下町です。
弘法山にはその名の通り、弘法大師をまつってあり、真言密教の道場としての側面があります。霊場としての雰囲気が感じられ、ちょっと怖い気がします。
帰りは、西尾根の途中から強引に国時の墓がある郭に下りて、下山することにしました。

上町(上の庁)

内堀地区からまっすぐ下る道を上町と呼んでいます。この道の両側には今は畑地となっていますが、井戸の付いた屋敷地として整然と整地されています。
「上の庁」あるいは上級家臣たちの屋敷跡であることは明白です。

枡形

上町と横町の交差点は、写真の通り明らかに枡形が形づくられています。
ここは、町人町と武家町との接点ともいえる場所で、いわば大手門のあった場所(おそらく門か城戸のようなものがあった)といえます。よって、ここから上が塩田城の城域といえます。交差する横町から下の本町や立町などはいわゆる「城下町」となります

横町

上町が武家町とすれば、横町は町人町との境界を作る道といえます。ここから下の地域には、いわゆる商業が営まれる町ができていたようです。
なお、この地には宿裏との地名があるとおり、やがて宿場町となったようです。旅人の往来もあったのでしょう。

市神の跡

枡形の直ぐ下、本町の通りに面して市神の跡があります。このことは、この本町に市場があって、商業が営まれていたということになります。いわば、塩田城下町の中心地であったということになります。また、市場がたつほどこの城下町が賑わっていたということもいえます。
ちなみに、現在でも上田城下町の中心街である海野町と原町にはそれぞれ市神様がまつられています。

立町

豪族の居館などに向かう道を「たつ道」と呼ぶことがありますが、この道はまさしく塩田城へまっすぐ延びる塩田城の「たつ道」です。
下町(下の庁)から本町の上端の桝形までを見通すことができます。この道に対してほぼ等間隔に小路が出ていて、整然と石垣などにより区画分けされており、都市計画に基づいた地域であることが、見て分かる場所です。

鎌倉道

塩田城からまっすぐ下りてきた「たつ道」は、下城戸という地区にてこの古道と交差します。
下城戸、つまりここが塩田城の入り口、大手口となります。そして、東に向かう一本道を「鎌倉道」と呼んでいます。「いざ、鎌倉!」というとき、北条氏の本拠地である鎌倉へ通ずる道です。

この道を上がっていった塩田北条氏の軍団は、再び塩田へ帰ることはありませんでした。

竹ノ内地区

下町地区の東側に竹ノ内という字が残っています。竹ノ内すなわち「館の内」ということで、鎌倉から塩田に移ってきた北条義政の居館は、この付近にあったと推定されています。
まず、この付近に最初の政庁が存在し、やがて塩田城域に移った。最初の政庁を下の庁(下町)、後の方を上の庁(上町)と呼び分けたという推測です。

流鏑馬遺跡

塩田城のすぐ近く、塩野神社の境内から鳥居にかけて、まっすぐな道が通っています。(約100mあまり)
ここが、最近の新聞発表で有名となった流鏑馬の走路跡です。塩野神社境内には馬返しと思われる広場があり、また、反対の鳥居の周りも広場となっていて馬返しになっています。
近くの中禅寺の薬師如来台座からは、ここで行われていた流鏑馬をスケッチしたと考えられる落書きも発見されています。
塩野神社には諏訪上社・下社がまつられていて、流鏑馬はこの諏訪の神に奉納するため行われたと推定されています。

生島足島神社社殿

塩田の地には、宮中でまつられている十二座の神のうちの二座、生島神と足島神をまつる、生島足島神社があります。神社は池の中の小島に社殿を建てるという非常に古い形式で建てられています。
この神社がこの地方の人々の深い崇拝を受けていたということは、有名な「武田家家臣団の武田信玄に対する血判状」によっても明らかです。
なぜ、宮中でまつられている神が、この塩田の地にてまつられているかについては不明な点が多いのですが、大和〜奈良時代に信濃国府が上田にあったことや信濃国造の本拠地が塩田にあったことなどが、関係しているといわれています。なお、生島神、足島神ともご神体は大地そのものということで、神殿の中は何も無いとのことです。

諏訪社殿

上の生島足島神社社殿と相対するように、諏訪社社殿が建っています。
毎年生島足島神社では、「お籠もり祭」なる祭事が行われますが、この祭事は太古から伝えられているもので、諏訪神が天照大神から信濃統治の命をうけて、この地にやって来たとき、すでにこの地に有力な生島・足島神がいた。そこで諏訪神は自ら長期にわたり御供を献じ、はじめて了承を得て諏訪に向かったことに由来するといわれています。
生島・足島神はもともと宮中で祭られている神であるから、地方神としての諏訪神がこの神に対して奉斎の誠をいたすのは、当然であったかも知れません。

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