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塩田城跡は、塩田盆地の南、独鈷山の北山麓線のほぼ中央にあり、標高600mあって塩田盆地を眼下に一望できるところにある。弘法山と阿曽岡山の間の奥地から北へ流下する、神戸川の作った扇状地に立地するのが塩田城とその城下町である。神戸川が産川と合流する地点の西南に下城戸なる地名が残っているが、これが城下町への入り口である。続いて南方へ館跡および城下町と関わりがあったと思われる地名を挙げれば、竹ノ内、竹下、おわり、きつね戸、おやしき、かまば、いやしき、やしきうち、京ぢぢ、院内、大御堂、町うら、立町、本町、上町、横町、宿うら、内堀、矢倉、番匠村、談義所、元談義所、御前、御所の入、市町など、中世に溯る地名がたくさん残っている。特に中央を通じている立町・本町・上町及びそれと交差する横町には、約1町(100m)おきに直角に交わる小路が設けられ、一見して意図的に地割りした集落であることがわかる。本町通には市神があり、中世は市場としてこの地方の中心であったことを物語っている。
なお、中央通が横町と交差する辻は、かつて桝形であったことは明らかで、これから南方の上町を通過して220mで濠跡に達する。この間は道の両側に井戸を持つ広い削平地がいくつも残されていて、おそらくは重臣たちの住居跡かとも推定できる。その南部、いま「内堀」と呼んでいる地籍の南端に東西約180mの濠跡が残っている。
この濠跡から南方、標高650mの山腹にかけて実に約600mにわたり二十数段にも及ぶ削平地が階段状に築かれ、広いものは2000平方mあまりに達する。
以上の地域一帯を左右から抱え込むようにして尾根が東西から突出し、その頂上双方に砦の遺構があり、さらには塩田平一帯に残る幾多の城塞は、塩田城に付属した衛星的な意味を持ち、塩田平すべてが要害の地となっているともいえる。
昭和43年から3年にわたってこの城跡の一部を発掘したが、そこからは主として南北朝以後の遣物が検出された。しかし、この地にはなお広大な地域にわたって中世館跡と覚しき地形、地名等が分布しかつ北条氏の祈願寺という前山寺、同じく北条氏の菩提寺という竜光院なども存在するので、守護所が設置された可能性は、きわめて大きいと考えられている。 |