塩田城の歴史
信州の鎌倉
上田市の南西に展開する盆地を「塩田平」と呼ぶ。近世は上田藩の穀倉地帯であったが、この地には有名な安楽寺八角三重塔、常楽寺石造多宝塔、前山寺三重塔、中禅寺薬師堂および薬師如来座像といった全国的にも知られた文化財が密集している。それらがいずれも鎌倉から室町にかけての古い時代のものであるため、この一帯は「信州の鎌倉」とも呼ばれてきた。
北条義政の塩田入り
塩田平にこのように文化財が多い理由として、1277年、幕府の重臣北条義政がこの塩田の地に居を構え、その子国時、俊時と三代六〇余年にわたって、この地方の政治・文化の中心となったことがあげられている。
この北条義政という人物(大河ドラマ「北条時宗」では渡辺徹が演じています)は、幕府の第二代執権北条義時の第三子、重時(大河ドラマ「北条時宗」では平幹二朗が演じていました)の子で、第六代執権長時(同ドラマでは川崎麻世が演じていました)の弟に当たる。義政は重時の子ということで、兄長時、時茂(波賀研二が演じていました)などと共に若いときから幕府の要人となった。重時が没したとき、長時は六代執権、時茂は六波羅探題の重職についており、まもなく義政も引付衆の重職に抜擢されている。そして3年を経て評定衆に昇進、さらに四年たった1273年、ついに連署となって時の執権時宗を補佐するという地位にたってしまう。連署とは正執権時宗に次ぐ地位であり、北条一門でも誰でもつける地位ではないが、義政は32歳の若さで就任してしまった。
その義政が連署に就任した翌年の1274(文永11年)は蒙古来襲という大難があった年である。この非常事態に義政は24歳の若い執権時宗を良く補佐し、関東の武士団を指揮していた。
義政はこれから5年間、連署の地位にあった。ところが、1277年、第2次蒙古襲来を目前にして突如出家隠遁し、信州塩田の地に至った。
この理由については、罪を得て逐電したとか、あるいは時宗の不興を買い、信濃へ篭居したとか書かれている。しかし、これから約60年後の鎌倉幕府滅亡時には、一族挙げて得宗家に殉じていることから、罪を得て流されたというのは「?」となる。
三善康有の「健治三年日記」なる記録には、義政はかねがね希望していた出家を遂げることができ、また、時宗は何とか義政のこの行動を留めようとして使者を派遣したが、義政を連れ戻せなかったとある。義政は、自ら求めて信州塩田の地に入ってきたことになるが、なぜ、このような行動をとったのだろうか。
おそらくは、若い執権時宗への遠慮があったのではないだろうか。義政は出家時には37歳になっていたが、時宗は27歳の血気盛ん。しかも政権におけるキャリアは時宗のほうが長い。時宗にとっては連署なる補佐役が必要ではなかったのではないか。それを義政も感じ、みずから退いたと思われる。実際、義政が連署を辞してから長いこと、時宗は連署なる補佐役を設けることはなかった。
なぜ、塩田なのか
時の副執権たる北条義政の隠遁の地として、なぜ鎌倉から遠く離れた信州塩田の地が選ばれたのか?
塩田は、少なくとも今から一千年前は、安宗(あそ)郷(阿曽郷ともかく)といっていたことが、『和名抄』という朝廷が編さんした書物に載っている。この「安宗」という名は今も、塩田平の南方に聳える安曽岡・安曽岡山(何れも東前山・柳沢両区にまたがっている)に残っているが、実は九州の阿蘇山の「阿蘇」と関係の深い名であることも考証されているのである。
大和朝廷がようやく国家の形を整えつつある頃、当時文化の先進地であった九州から、たくさんの氏族が、大和平野に移り住んだ。そして大和朝廷の国造りに参画し功績をあげたが、その中に阿蘇山の麓からやってきた阿蘇氏の一族がある。この氏族が科野国(信濃国の古名)の他数カ国の国造(今でいえば県知事に当る職)に任命されたと記されている。
塩田の地は、この国造の所在地として比定される地である。その根拠は、塩田平に阿曽岡・阿曽岡山などのアソと称する地名が残っていること、生島足島神社という国魂神(国土生成の神)が「延喜式の大社」として現存すること(国魂神は、国造の治所には祀られるのが通例であった)、一族の小子部氏の名が小県(ちいさがた)(小子部の県の意)として残っていることなどによっている。ちなみにその後、上田市には信濃国分寺・尼寺が建てられており、しかるに信濃国府もはじめは上田市にあったものと推定されている。
時代はくだり、平安末期に木曽義仲が平家追討の軍を挙げたのは東信濃であり、その拠点はそれまで隠れていた木曽ではなくこの塩田平の東端、依田城であった。木曽義仲の滅亡後、政治・交通あるいは軍事上において、塩田がただならぬ地であることを源頼朝は認識しており、信濃の守護に比企能員、特に塩田の地頭には惟宗忠久(後の島津忠久)というもっとも重用していた人物を当てている。さらに、この地頭補任状は信濃におけるものとしては最初のものであると共に、全国的に見てももっとも早い時期に出されたことがわかっている。頼朝がいかに塩田を重視したかわかる。
その後、北条氏に政治の実権が移ってからも、信濃の守護は執権北条義時みずからが就任し、さらにその子北条重時が受け継ぎ、以後重時の子孫が「信濃守護」を継承していく。この北条重時の信濃守護時代、すでに塩田の地は「信州の学海」と呼ばれ、学術・文化の中心となっていた。この時期に鎌倉・建長寺と深い関係がある別所安楽寺が建立され、建長寺開山である蘭渓道隆と親しい交流があった樵谷惟仙という高僧が安楽寺開山として迎えられていた。
つまり、義政が入る前から、塩田は信濃における重要な政治的根拠地と考えられていた。そして幕府首脳は常に有力な武士や宗教人を派遣して、ここに政教の中心とした。それが「信州の学海」となり安楽寺の建立となった。塩田とはこのような歴史的背景のある地であった。
また、北条重時が信濃守護となり、その本流が代々信濃守護を継承していることが、義政を信州に向かわせた直接の理由であると考えられる。
では、なぜ、信州の塩田なのか?
そこに政治の中心があったから。いわゆる信濃の守護所あったからという想定がなされてくる。では、その場所は?
ここで「塩田城」の存在が、重大になってくることになる。「塩田城」の詳細は、別のページで紹介することとする。
その後の塩田北条氏
北条義政は塩田に移って5年後、弘安4年(1281)に没した。この義政の後を継いだのは国時である。国時も引付衆の筆頭を勤めるなど重職につくが、正和2年(1313)には突如、国時の名が評定衆から見えなくなり、代わって赤橋守時が筆頭となる(守時が最後の執権である)。理由は不明である。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は笠置山に立てこもり、鎌倉討伐の決意を固めた。幕府は大軍を西上させたが、この大軍を率いる将軍の中に塩田越前守の名が見える。この時、後醍醐天皇は隠岐に流されてしまうが、元弘3年、楠木正成の反抗、後醍醐天皇の隠岐脱出などにより情勢は急転する。幕府方の大軍を率いていた足利高氏が寝返るにあたって、鎌倉の命運は決定的となった。これを見ていた新田義貞は、大軍を率いて鎌倉へ進軍を始めた。これに対し鎌倉方は武蔵国関戸にて最後の防戦を試みた。その軍の大将に塩田陸奥入道(国時)の名もある。
その後、鎌倉総崩れとなり、得宗高時を始め北条一族は東勝寺にて自害全滅した。塩田北条国時・俊時親子も壮絶な自害を遂げ、ここに塩田北条氏三代60年が終わる。
室町期の塩田
北条氏の滅亡に伴い、北条氏の塩田領は没収となる。その後、この地は新田軍に属し功績のあった村上信貞に恩賞として与えられる。それ以降、武田信玄の信濃侵攻までこの地は村上氏の領地として、村上氏の代官福沢氏により統治されていた。この代官所が置かれたのが「塩田城」である。
鎌倉時代、北条氏三代57年にわたる塩田平の歴史も重要だが、南北朝・室町時代に入って少なくも200年に余る村上氏(代官福沢氏)治政時代の塩田平の歴史も、あらためて検討される必要があるであろう。諏訪大社の史料によれば、室町時代の塩田福沢氏は、常に信濃における最大土豪の一として記録されているのである。
武田信玄と塩田城
甲斐の武田晴信が天文21〜22年にかけて筑摩地方の攻略をしたのは、村上義清の本拠、葛尾城を西方から攻めようというねらいによる。これを受け、天文22年、武田勢は葛尾城を攻めた。村上義清は逃走し、越後の長尾景虎に救援を求めた。越後勢の救援を受け、村上義清は塩田城にこもった。が、武田勢に攻められ、塩田城も落城すると村上義清は行方知らずとなり、東信濃は完全に武田氏の勢力圏となった。信玄は天文10年(1541)小県地方に侵攻をはじめてから12年の歳月をかけて、やっと塩田城を攻略し、はじめて北信濃をのぞく全信州を手中とすることができたのである。塩田城に拠った村上氏の抵抗がいかに大きかったかをよく物語るものであると同時に、塩田平の戦略的な重要性を如実に示すものといわねばならない。
武田信玄は塩田城の戦略上の重要性を重視し、ここに飯富虎昌を始めとする重臣を置き、甲州から有力な農民層を連れてきて、信濃の前進基地として使用している。
その後の塩田城
天正10年(1582)武田氏が滅亡して後、小県郡一円は真田氏の領有するところとなった。その翌年−すなわち天正11年、現在の上田城を築いた真田昌幸(幸村の父)は、城を中心として上田城下町をつくり、ここを小県郡の政治・経済の中心とした。このとき、鎌倉時代から、小県地方の政治・文化の中心であった塩田城と塩田城下町ははじめてその機能を失い、一農村地帯と変っていく。しかし上田藩は、塩田平を”塩田三万石”と称し、藩の穀倉地帯としてきわめて重要視し、藩政初期仙石氏時代には、塩田城の城下町であった東前山に大庄屋をおいてこれを統率させている。
その後、この地方の政治経済の中心が上田城下町に移るに連れて、塩田の役割が薄れていったと考えられる。

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