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第二章 リンおばさん

 「ヘイ!ティム!」
 呼びかけられて、僕は立ち止った。振り返ると、ノートを紐で縛ったやつをブンブン振り回して、アルバートとテオドールが走って来る。いつも変わらず騒がしい、僕の悪友たちだ。
 「へい!バート!テオ!」
 応えて手を上げると、猛然と駆けて来た二人は、僕の前に立ち止まってハアハアと白い息を弾ませた。
 「今日も行くのか、あのばあさんのとこへ?」
 ずり落ちたマフラーを首に巻きつけながら、バートが尋ねる。僕が頷くと、テオが呆れたように言った。
 「一体何が楽しくて、あんなとこへ行くんだい?それより俺たちとスケートに行かないか?湖の氷が、大分厚くなってきたんだって」
 僕は、ちょっと迷って答えた。
 「ううん、今日はやめておくよ」
 「何でさ?エレイン・ホールも友達と一緒に行くんだぜ」バートは顔を輝かせて言う。「それに、ルシル・マーシャルも。絶対行かなくちゃ損ってもんじゃないか?今からメイフェアのダンスの相手、決めといた方がいいぞ」
 エレイン・ホールもルシル・マーシャルも、僕らの学校では名前を知らない者がないほど、際立って可愛い女の子たちだった。もうすぐ13歳を迎えようとしていた僕たちにとって、一番の関心事は何と言っても女の子のことだ。誰もが素敵な女の子とステディになりたいと思っていたし、そのために精一杯背伸びしていた。
 洒落た言葉。面白い話。ユーモアとウィット。そしてダンスのステップ。
 僕らは、授業なんかそっちのけで、そうしたものに熱中した。いろいろな所から情報を仕入れてきては、何が女の子たちの気に入るのか、むきになって議論を戦わせた。それはシナモンティーであり、バラの花束であり、そして砂糖菓子に綺麗なドレスだった。誰もが、これこそ一番アピールするプレゼントだと主張して譲らず、議論は僕らの財布の中身が空っぽに近いということを思い出すまで続けられた。
 けど、『男の子』から抜け切れていない僕らには、女の子たちはまぶし過ぎた。見つめられただけで頬は火のように熱くなり、話しかけられれば胸がバクバクと高鳴った。女の子たちは、もうまるで大人のようで、彼女たちの前に出ると、口を利くことすらできなかった。くすくす笑って走って行くその姿は、まるで妖精のように軽やかで、僕らは呆けたように突っ立って見つめているだけが精一杯だった。
 メイフェアまで、もう三ヶ月もない。五月一日のダンスパーティに、パートナーがいないなんて、考えるだけでも辛いことだった。だから僕らは、放課後になると、いつも女の子たちが集まる場所へ、さり気なく出かけた。そうしているうちに、いつか話をするきっかけが掴めるんじゃないか。声をかけられないまでも、相手が気づいてくれるんじゃないか。そうした淡い期待で、僕らは毎日、胸をドキドキさせていた。

 けれど、この一週間ほど、僕にはそれがあまり気にならなくなっていた。
 みんなが憧れている、エレイン・ホールもルシル・マーシャルも。そして、僕が密かに想いを寄せていたベロニク・サンダーランドも。女の子だけじゃなくて、洒落た言葉、面白い話、ユーモアとウィット、そしてダンスのステップ、そのどれにも、僕はそれまでほど夢中になれなくなったんだ。
 その理由が、村はずれの一軒屋に住んでいるおばあさんだと言っても、誰も信じないだろう。女の子と話すより、『リンおばさん』と話している方が楽しいなんて言ったら、きっとみんな、僕がおかしくなったんじゃないかと思うに違いない。けど、それは本当なんだ。僕はこの一週間、毎日リンおばさんの家に入り浸っていた。
 リンおばさんは、ずっと昔からその家に住んでいる、ちょっと太った優しいおばさんだ。僕のおじいちゃんが子供だった頃には、もうおばあちゃんだったというから、本当はうんと年寄りに違いないけど、どう見ても六十歳ぐらいにしか見えなかった。お料理とお裁縫が上手で、いつも笑顔を絶やさない。「マンマ、ミーア!(あらあら)」と言うのが口癖で、僕が訪ねて行くと、エプロンで手を拭きながら、そう言って迎えてくれる。
 手作りの美味しいクッキーと、あったかいミルク。僕たちは庭の合歓(ねむ)の木の下にシートを敷いて、おやつを食べながらいろんなことを話した。学校のこと、友達のこと、メイフェアのこと、そして女の子のこと。おばさんは、にこにことそれを聞いてくれて、どんな小さなことでも、僕の努力を誉めてくれた。
 ひとしきり僕の話が終わると、今度はおばさんの番だ。
 おばさんは驚くほど物知りで、僕の父さんや母さん、それどころかベック先生でも知らないことを、たくさん知っていた。それはとても不思議なお話で、僕らのおじいさんのおじいさんの、そのまたおじいさんが、まだ子供の頃の話だったり、現実にあるとは思えないほど、奇妙なお話ばかりだった。けれど、それはどれも心躍る楽しい物語ばかりで、聞き終えると、いつも幸せな気分になった。僕は、一つのお話が終わってしまうと、また次のお話をせがみ、冬の短い陽射しが翳(かげ)って、あたりが真っ暗になるまで、お話に聞き入っていた。

 「無理には誘わないけど、気をつけた方がいいぞ」おばさんの家に続く小道が交叉する十字路で、バートが別れ際に言った。「『リンおばさんは、ちょっと頭がおかしい』って、うちの父さんも言ってるし、『魔女』だって噂もあるんだ」
 すると、テオも口を揃えて言った。
 「俺も聞いたことあるぜ、それ。知ってるか?魔女って、男の子の肉が大好物なんだってさ」
 二人はそれから、交互に魔女の恐ろしさをまくし立てたが、僕が笑って相手にしないので、とうとう諦めて行ってしまった。僕は、二人の姿が道の向こうに見えなくなるまで見送って、ゆっくりと歩き出した。
 冬枯れの小道を歩きながら、おばさんのことを思い出してみると、確かにその通りかも知れないと思う。何故って、おばさんの家には黒猫がいるし、何と言っても箒(ほうき)があるんだから。
 黒猫の一匹ぐらい、飼ってたって不思議じゃない。けど、箒の方がただ者じゃない。
 この箒ときたら、自分で掃除をするんだ。『ブルーム』っていう名前で、綺麗好きで口うるさい、古ぼけた箒。クッキーのかけらを落っことそうものなら、すぐに飛んで来てガミガミやる。それから家中の掃除を始めるんだ。「ガキは散らかすから嫌いだ」とかブツブツ言ったりして。
 最初の時は、そりゃ驚いたさ。でも、おばさんときたら、肩をすくめてこう言うんだ。
 「マンマ、ミーア!ブルームは掃除が好きだからねえ」
 すると、箒は忌々しそうに答える。
 「わしは掃除なんぞ好きでねえだ!」
 あれって、やっぱり魔法の箒なんだろうか。おばさんが魔女だっていう噂は、そうすると多分本当のことなのだろう。
 けれど、もしリンおばさんが魔女だとしても、きっと良い魔女に決まってる。だって、僕はこんなにウキウキしているし、帰る頃には幸せでいっぱいだし、何より僕はまだ食べられていないのだから。

 「おばさーん!」
 生垣の前に立って声をかけると、小さな家の小さなドアが開いて、リンおばさんが飛び出して来る。いや、体が戸口に挟まっちゃうから、飛び出して来るというのはちょっと違うかな。とにかく、玄関の前に立って、両手をいっぱいに広げて、そうして飛び切りの笑顔で言うんだ。
 「マンマ・ミーア!ティモシー・アステアじゃないか!」
 たっぷりしたスカートの裾から、黒い猫が顔を出してニャーンと鳴く。「シャノア!」僕が叫んで駆け出すと、猫はおばさんの足の間から抜け出して、僕に飛びついて来る。抱き上げて喉をくすぐってやると、彼女はゴロゴロと挨拶をして、僕の肩にするりと乗った。長い尻尾が目の前でヒラヒラと揺れ、それを見ている暇もなく、今度はおばさんが突進して来る。僕は慌てて目をつぶり、おばさんの体当たりに備えなくちゃならない。
 ぼふっ。
 「お、おばさんっ!苦しいっっ!」
 じたばたもがく僕を、折れるほど抱きしめて、おばさんは頬ずりする。
 「よく来てくれたね!さあさ、お入り!」
 こうして挨拶が終わり、僕は家の中に引きずり込まれる。
 玄関で帽子とコートを脱ぐと、やって来たブルームに手渡す。「やあ、ブルーム」僕が挨拶すると、彼はぶすっとして言った。
 「また来ただか。今日は散らかすでねえだぞ」
 相変わらず不機嫌そうな返事。もっとも、慣れてしまうと全然気にならない。僕は笑って答えた。
 「でも、ブルームの仕事がなくなっちゃ気の毒だし」
 「何てまあ、口の減らない小僧だっ!」ブルームは地団太踏んでわめく。「今日はもう一人、お客が来ているだで、行儀良くできなかったら、ゴミと一緒に外へ掃き出してやるだぞ!」
 「そりゃ楽しみだ」僕も負けちゃいない。「僕を入れるちり取りがあったらね」
 「さあさあ、もうそのへんでおよし」取っ組み合いになる前に、リンおばさんが止めに入る。「お茶が冷めちまいますよ。ブルーム、明日のお三時のために、糖蜜をひと瓶とミルクを一パイント買ってきておくれ」
 「何てこった、やくたいもねえ! ほんにまあ、掃除しろっつーたかと思うと、今度は買い物さ行けっつーだか。何て人使いの荒い家だべ!」
 ブツブツ言いながら、ブルームが出て行く。あの姿で買い物に行ったら、大騒ぎになるんじゃないかと思って見ていると、彼は玄関でダブダブのコートを羽織り、つば広の帽子を目深に被った。なるほど、あれなら顔も体も全然見えない。随分怪しいけど、確かに買い物ぐらいはできるだろう。
 感心していると、おばさんは僕の手を取ってにっこり笑った。
 「さあ、おいでティム。ダージリンは、冷めたら美味しくないんだよ」
 「あの、おばさん・・・」
 「何だい?」
 「今日はホットミルクじゃないの?」
 すると、おばさんは片目をつぶって、指を振って見せる。
 「ちっちっ、ティム。可愛いレディをもてなす時は、香り高い紅茶じゃなくちゃ」
 「可愛い・・・レディ?」
 僕以外に、この家へやって来る人がいるなんて。しかもそれは、どうも女の人らしい。僕は、ちょっと面食らって、オウム返しに尋ねた。おばさんの友達なら、僕は帰った方がいいんじゃないかって思ったんだ。するとおばさんは、嬉しそうに笑った。
 「そうさ。このリンおばさんに、編物を習いたいっていうんだよ。嬉しいねえ」
 「それじゃ僕、帰った方が・・・?」
 「心配することはないよ、ティム。お茶もお菓子も、どっさり用意してあるんだから」
 いや、そういう意味じゃなくて。なんて言ってる暇もなく、おばさんはリビングのドアを勢い良く開けて声を上げた。
 「さあ、もう一人、お客様だよ!」
 僕は、背中を押されてリビングに入り、挨拶に立ち上がった先客を見て棒立ちになった。
 見覚えのある、グリーンのギンガムのドレス。肩に掛かる栗色の髪。くりくりと良く動くグリーンの瞳。ちょっと低い鼻の上に散ったそばかす。僕が名前を口にするより早く、彼女はこっちを指差して叫んだ。
 「ティモシー・アステア!」
 「は、ハイ、ベル」
 僕は、口ごもって手を上げた。
 同じクラスのベロニク・サンダーランドだった。
 
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