源氏の君にとって、この朧月夜は、愛しいまま別れた姫君ですので、長い年月ずっと忘れがたく、院が出家された今こそ、もう一度お逢いして、当時の想いをお伝えしたい……とお思いでございました。
ある日、家来をお呼びになり、
「尚侍にお逢いしたいが、お忍び歩きも憚られる身分なので、くれぐれも極秘に取り計らうように……」と仰せになりました。紫上には、
「東院の常陸の宮が、この頃患っているようなので、お見舞いに参ります」と、嘘をつきなさいました。紫上は妙だとお思いになりましたが、女三宮が六条院においでになって以来、少し隔て心がついたのか、ただ素知らぬ振りをしておいでになりました。
宵が過ぎるのを待って、粗末な網代車で忍んでお出かけになりました。朧月夜は源氏の君のお通いに大層驚かれましたが、熱い想いを一心に訴えなさいますので、いつまでも強い気持ちでもいられず、遂にはお逢いになりました。
源氏の君には廂の間にお座りいただきましたが、御襖は固く止めてありました。
「やっとお逢いできましたのに、この隔てをこのままでいられようか……」と御襖を引き動かし、
年月を中に隔てて逢坂の さも堰き難く落つる涙か (源氏の君)
(訳) 長い年月を経てやっとお逢いできたのに、この隔てには涙が落ちます
涙のみ堰き止め難き清水にて ゆき逢う道は早く絶えにき (朧月夜)
(訳) 涙が清水のように堰き止めがたくても、
逢瀬の道はずっと昔に絶えてしまいましたのに……
朧月夜はご自分のせいで、源氏の君が須磨に流され、世間の非難を受けた事を思いますと、すっかり気弱になられまして、いつまでも拒むこともできずに……。
姫君は昔のままに若々しく、とても魅力的でした。深く想い乱れるご様子に、初めて逢った時よりも強く、心奪われてしまわれました。
「昔、藤の宴でお逢いしたのは、たしか今頃だった。あれから随分年月が過ぎたことか……」としみじみ思い出されました。妻戸を押し開けますと、見事な藤の花が咲いていました。
「何と美しい……、この花影をどうして離れることができようか……」と、帰りにくそうに躊躇っておいでになりました。咲きかかっている藤の花を一枝折らせて、
沈みしも 忘れぬものをこりずまに 身を投げつべき 宿の藤池
朧月夜の姫君にとっても、藤の花は慕わしく想われるのでしょう。今はすっかり心許して、次の逢瀬をお約束なさいましたので、源氏の君はようやくご退出なさいました。
源氏の君は大層忍んで六条院にお帰りになりました。その寝乱れた御髪をご覧になり、紫上はすっかりお分かりになりましたのに、ただ気づかぬ振りをなさいました。源氏の君はその心遣いを、何とも哀れにお思いになりましたのに、
「物越しに少々お逢いしただけなので、物足りない気がしています。何とか人に見咎められないようにして、もう一度だけ……」と打ち明けなさいました。紫の上は、
「昔の恋を、今さら蒸し返しなさいますとは……」と涙ぐんでしまわれましたので、大層いとおしくなれ、二人の愛が永遠に変わらぬことを誓って、心深くお慰めなさいました。
夏になりました。東宮の女御(明石の姫君)はご気分がすぐれず、どうやらご懐妊のご様子です。帝からようやく御暇が許されましたので、六条院にご退出なさいました。寝殿の東側にお部屋を設けてお入りになりました。明石の上(母君)がこの女御に付き添ってお世話をなさるお姿は、誠に理想的な運勢に見えました。
この女御は、実の母君よりも親しい方として、紫上を頼りになさっていましたので、紫上も細々お世話なさいました。紫上が、
「女御にお逢いするついでに、姫宮(女三宮)にもご挨拶申し上げましょうか。お近づきになれましたら、私も気が晴れるでしょうから……」とご相談なさいますと、源氏の君は、
「それこそ望みどおりのお付き合いというもの。お二人が仲良くお暮らしになってほしいものです」とお喜びになりました。
紫上は姫宮にお逢いになりました。ただ子供っぽいばかりに見えますので、母親のように優しくお話しなさいました。姫宮のお気に召すようにと、お人形遊びの事などを申し上げますと、姫宮も、
「本当に優しく美しい方……」と、子供心にすっかり打ち解けなさいました。
紫上は気品があり、全てに立派にお心遣いをなさいまして、長い年月連れ添った今も、眩いほどの美しさと優雅さとを供え持っておられます。この頃、何か哀しそうなご様子が漏れ見えますのに、何事もないような素振りをなさいますので、源氏の君はまたとない素晴らしい方と思わずにいられませんでした。
それなのに、今夜もあの忍びの逢瀬に、実にどうしようもなくて、お出かけになりました。「とんでもないけしからぬこと……」と反省なさりながらも、朧月夜を想う御心を抑えることはできないようでした。