源氏の君がお忍びで六条の御息所(みやすどころ)の御邸にお通いの頃、大弐の乳母(だいにのめのと)が重い病気になられましたので、お見舞いにお出かけなさいました。
家来の惟光(これみつ)をお待ちになる間に、その家の辺りをご覧になりますと、隣に御簾などを清しく整えた涼しげな家がありました。板塀には青々としたつる草が這いかかり、白い花が美しく咲き匂っています。
「そこに咲く白い花は何か」とお尋ねになりますと、
「その白い花は夕顔と申します」と、家来が一房折り取りました。するとその家の中から女童が出てきまして、
「これにのせてお目にかけて下さい」と、香を焚きしめた扇をさしだしました。
その扇には、
心あてに それかとぞ見る白露の 花にそえたる夕顔の花
淡い墨つぎもゆかしく書かれていましたので、源氏の君はどのような姫君が住んでおられるのか……と、大層興味深くお思いになりました。
いつしか秋になり、源氏の君は葵上の御邸にもたまにしかおいでにならず、六条の御息所に対しても、以前のように一途になられることはなくなりました。
惟光が、源氏の君のお心に添うようにと、段取りをつけましたので、夕顔の宿にお通いでございました。
ささやかな庭には しゃれた呉竹が美しく、秋草の露が二条院と同じように輝いていました。
夕顔の姫君は大層なよやかで、美しくいらっしゃいました。白い袴に薄紫色の柔らかい衣を重ねた愛らしいご様子に、源氏の君は狂おしいまでに心惹かれてしまいました。しかし夕顔の家の周囲は、卑しい人々の住み家で、大層騒々しいところでした。
ある夜、月が急に雲に隠れて、明け行く空の美しい頃、源氏の君は、
「どこか静かな所で夜を過ごしましょう……」と、
姫君を軽々と抱き上げて御車に乗せて、某(なにがし)の別荘に移られました。
その邸はひどく荒れ果てて、木々が生い茂り、不気味な様子でした。夕顔が恐ろしげに大層怯(おび)えますので、ずっと添い臥して睦まじくお過ごしになりました。
夜深く過ぎる頃、源氏の君の枕元に 幻のように美しい女が現れました。
「私がこんなにお慕いしていますのに、何の見どころもない女をご寵愛なさるとは、恨めしうございます……」と申しました。
源氏の君は 物怪(もののけ)に襲われる思いがして目を覚ましますと、辺りは灯が消えて真暗闇です。太刀を抜いて魔除けにして、御几帳の内に入りますと、何と夕顔はうち臥して息をしていません。
源氏の君は驚いて夕顔を抱き上げ、
「愛しい人よ、生き返って下さい……」とお泣きになりましたが……、
やがて身体もすっかり冷えて、息も絶え果ててしまいました。
夕顔の亡骸を密かに東山の寺に移すことにして、源氏の君は惟光に促され 、二条院に戻られました。けれども
「今一度、夕顔に逢いたい……」と、東山の寺へお出かけになりました。
亡骸は大層小さく、むしろ愛らしげで、まだ生きているようにさえ見えます。その手を握って、
「今一度声を聞かせてください……いかなる前世からの縁でしょうか。少しの間、心を尽くし愛し合えたのに、私を捨てて死んでしまわれるとは……」と、声を惜しまずお泣きになりました。
朝霧の立ちこめる帰り道、源氏の君は悲しみのあまりに、馬から滑り落ちてしまわれましたが、なんとか助けられ, 二条院にお帰りになりました。それからというもの、病床に臥され、すっかり衰弱してしまわれました。内裏では、限りなくご心配なさいまして、御平癒のご祈祷がしきりと催されたのでございました。
夕暮れの静かなひととき、源氏の君は 夕顔に仕えていた女房の右近をお召しになり、
「あの姫君とは、こうゆう宿世の仲だったのであろう……。女は儚く頼りないように見えるのが愛しいもので、内気にふるまって、連れ添う人に従うのが可愛いいものだ。そういう気立ての女を、自分の思うように躾けたら、仲睦まじくいくでしょう……」等と仰せになりました。
右近は、
「そういうお方でしたのに、お亡くなりになられて、口惜しうございます……」とまた涙を流すのでした。