20世紀始め、北大西洋航路を2つの会社が商売敵として競争し合ってました。一つは、今も健在のクイーン・エリザベス号を所有するキューナード社です(タイタニック号の遭難者を救助したカルパチア号はキューナード社所有です)。そしてもう一つは、ホワイトスターライン社です。1907年、当時優勢だったキューナード社を打ち負かすために、ベルファストの造船会社ハーランド&ウルフ社の会長ピリー卿は、ホワイトスター社社長のJ・ブルース・イズメイに、これまでのどの客船よりも大きくて贅沢な船を三隻作ることを要請したのです。ちなみに、ホワイトスターライン社は、国際海運商事(IMM)の子会社で、IMMの経営者の一人がJ・ピポント・モーガンなのです。
年月日 |
事象 |
| 1908年12月16日 |
ベルファストのクイーンズ・アイランドにあるハーランド&ウルフ社の造船所で、まずはオリンピック号のキール(竜骨)の建造が始まりました。 |
| 1909年3月31日 |
タイタニック号建造開始 |
| 1910年10月20日 |
オリンピック号進水式 |
| 1911年5月29日 |
オリンピック号試験航海に出発 |
| 1911年5月31日 |
タイタニック号進水式 |
| 1911年6月1日 |
オリンピック号ニューヨークに向け処女航海(スミス船長) |
| 1911年6月21日 |
ニューヨークの第59番桟橋に近づきつつあるオリンピック号はタグ・ボートのO・L・ハーレンベック号を船尾に巻き込み沈没させかける(スミス船長) |
| 1911年9月1日 |
三隻目の「オリンピック」クラスの客船の建造が発表。1912年5月にこの船の名前は「ブリタニック号」と決まりました。 |
| 1911年9月20日 |
サウサンプトン港でオリンピック号と巡洋艦ホークとが衝突(スミス船長)。このため、タイタニック号の建造工事が大幅に遅れる。 |
| 1912年4月1日 |
タイタニック号、ベルファストで試験航海 |
| 1912年4月10日 |
タイタニック号、ニューヨークに向け処女航海 |
| 1912年4月15日 |
午前2時20分、タイタニック号沈没 |
| 1914年2月26日 |
タイタニック号の事故の影響で大きく設計が変更され、建造が遅れていたブリタニック号がようやく進水式。しかし第一次大戦の影響で、完成するのは1915年11月。 |
| 1915年12月12日 |
ブリタニック号は病院船として徴用されることになる。時期を同じくして、オリンピック号も軍用輸送船として地中海と大西洋で活躍した。
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| 1916年11月21日 |
エーゲ海でドイツ軍の機雷に触れブリタニック号は沈没。この時の生存者のヴァイオレット・ジェソップはタイタニック号の女性客室係だった。また、火夫のジョン・プリーストは、オリンピック、タイタニック、ブリタニック全てで乗務の経験があった。ブリタニック号は、一度も商船として使われることなく、その短い命を閉じた。 |
| 1918年4月(5月?) |
オリンピック号、ドイツ海軍Uボート(U−103)の魚雷攻撃をかわし体当たり攻撃。Uボートの方が沈没した。 |
| 1919〜20年 |
オリンピック号、50万ポンドかけて石油専焼に大改造される。 |
| 1924年 |
ニューヨーク港で汽船フォート・ジョージ号と衝突 |
| 1926年 |
IMMは、ホワイトスターライン社を王立郵船に売却。王立郵船の社長のキルサント卿が、ホワイトスターライン・リミテッドという別の新会社を設立。 |
| 1934年 |
キューナード社はホワイトスターライン社を吸収合併。社名をキューナード−ホワイトスター社とする。 |
| 1934年5月15日 |
オリンピック号、ナンタケット島の灯台船に衝突。相手船の乗組員7名が失命 |
| 1935年 |
オリンピック号引退 |
| 1937年 |
オリンピック号解体 |
| 1945年 |
キルサント卿のホワイトスターライン・リミテッド解散。同時にキューナード−ホワイトスター社は元のキューナード社に社名を戻した。この時点で"ホワイトスター"という名前は終焉を迎えることになる。だが、ホワイトスター社の船は一隻だけ今も残っている。パリで水に浮かぶレストランになった、1911年建造のノルマディック号だ。 |
| 1976年 |
海底に沈むブリタニック号がJacques Cousteau氏率いる調査団によって発見された。 |
| 1985年9月1日 |
ロバート・D・バラード博士率いる調査団によって、海底に眠るタイタニック号が初めて発見された。 |