ヒッチンズ操舵手について
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掲示板でご質問がありましたので、調査結果をHPで紹介させて頂きます。今後も質問の内容によっては、こういう形式でお答えしていきたいと思います。
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| ヒッチンズ操舵手とは?(概略説明) |
| ヒッチンズ操舵手の詳細説明 |
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ロバート・ヒッチンズは、1882年9月16日漁師のフィリップ・ヒッチンズと妻のレベッカの息子として生まれた。コーンウォール出身。 ヒッチンズは、1906年10月23日デヴォンのマナトン協会でフローレンス・モルティモアと結婚。その時の彼の職業は船長だった。 タイタニックに乗務する前は、多くの船で操舵手として勤務していた。しかし、北大西洋での経験はなかった。 .タイタニックでは、ヒッチンズは、6人の操舵手の一人として、1912年4月6日に雇われている。その当時のヒッチンズは、サウサンプトンに彼の妻と2人の子供と暮らしていた。 1912年4月14日の夜、見張り台から氷山発見の報告がブリッジにあった時、ロバート・ヒッチンズは、ちょうどブリッジで操舵の勤務に就いていた(午後10時にオリバー操舵手と交替で勤務に就いた)。「取り舵一杯!」の命令で直ちにヒッチンズは、いっぱいまで舵を回した。 午前0時23分頃、ヒッチンズは、ペルキス操舵手と操舵勤務を交代した。その時、乗務員の一人が「舵はもういい。ボートを降ろすんだ!」と叫んだ。そして、ライトラー二等航海士は、見張り係のフレッド・フリートに漕ぎ手として6号救命ボートに乗りこむように言い、ヒッチンズには6号ボートの指揮を担当させた。65人乗りの6号ボートは、たった28人だけを乗せ、午前0時55分頃、船から降ろされた。そして水平線の向こうに見えるライトの光らしきものを目指して漕ぎ出した。 後の綿密で詳細な事故調査の結果、ヒッチンズの6号ボートでの指揮ぶりが明確になってきた。カルパチア号に救出され、ニューヨークにたどり着いた後、ウィリアム・スミス上院議員は、アメリカでの事故調査委員会に、29人の乗務員を召喚した。事故調査委員会は、4月20日からイギリスで引き続き行われた。 ヒッチンズは、4月24日、次のように証言している。 ------------------------------------------------------------------- 「私はライトラー二等航海士の命令により、6号ボートの指揮を任されました。我々は船から離れるよう漕ぎ出しました。私はボートの上で、多勢の人がボートにしがみついてくるに違いないと言いました。船首から沈みつつある船のそばにボートを近づけておくことはできなかった。我々はとても危険な場所にいたのです。だから私は、ボートに乗っている全員に言ったのです。「みなさん、ベストを尽くしましょう。」と。 私はオールで漕いでいる一人の若い女性に、漕ぐ換わりに舵を取るように言いました。途端に彼女はボートの方向を狂わせ始めたので、他の女性達が不安がりました。ですので、私は再び舵を取ることにし、乗客達に大丈夫だと安心させたのです。 メイヤー夫人が私のことでひどく怒っていたので、私は反論しました。メイヤー夫人は私が毛布をいくつもかぶり、汚い言葉で罵り、ウィスキーで酔っていたと私を非難しておりますが、私は否定します。私はボートを注意深く監視するために一晩中立ち続けていました。とても寒い役目です。 私は舵を取るよりもむしろボートを漕いでましたが、見た所、誰も舵を取っていませんでした。とても不安がっている女性達を見るに、このままボートの指揮を取り続け、私が舵を取るのがベストだと考えました。 タイタニック号の方へボートを戻すように私をせかした女性がいたということですが、私は記憶にございません。 私はタイタニック号の方へは漕がなかった。なぜなら、沈もうとする船の吸引力でボートが水面下に引き込まれてしまうと考えたからです。私にはタイタニック号へ戻るという理由がわかりません。私は他のボート達を注視していました。私達は、お互いのライトの光を注視し合ったのです。 船の光が消え、沈んでしまった後、私達は、多くの叫びや悲鳴を聞きました。それは2〜3分続きました。私達はお互いのボートを固く結び合いました。その中心となったのは16号ボートでした。そのボートには38人の女性が乗っていました。 私達はカルパシア号に乗り込みました。そして私は全ての乗員乗客がボートから降り、カルパシア号の甲板に導かれるのを注意深く見守りました。私は6号ボートから降りた最後の一人でした。 ------------------------------------------------------------------- 証人喚問が終わった後、ヒッチンズはセルティック号でイギリスに戻り、1912年5月4日にリヴァプールに戻った。1912年5月7日、彼はイギリスで行われた事故調査委員会で、492個の質問に証言した。 1914年、ヒッチンズは南アフリカのケープ・タウンに行った。そこで彼は港の港湾長として働いた。彼は訪れた友人に次のように打ち明けた。ホワイト・スター社が私を南アフリカに“幽閉”し、タイタニック号での出来事を黙り続ける限り、港湾長の職を与えるということを。 1917年、タイタニック号の生存者の一人が、ジョアネスバーグにいるヒッチンズと会うことになった。ヒッチンズが南アフリカに住んでいるという情報は、トーマス・ガーベイ氏からの手紙にあったからである。ガーベイ氏の同僚であるヘンリー・ブラムは、ヒッチンズと面識があり、1914年ケープ・タウンの港にドック入りしていた英国船に操舵手として乗務していた。 ブラム氏によると、ボートを出迎えるために出てきた港湾長が、ヒッチンズだったという事だ。ヒッチンズとブラム氏は会話を持った。その中で、ヒッチンズの「告白」があったのである。タイタニック号の事故に関して秘密を守るためにケープ・タウンまで送られたという内容だった。 ヒッチンズは1918年から1920年の間に、南アフリカからイギリスに戻った。最近になってそれは、ヒッチンズが南アフリカでボートを盗み、イギリスに自力で戻ったのではと言われている。しかしそれには証拠は無い。 彼は公然とトルクアイで生活し、自分自身を隠すことなく仕事を始めた。妻のフローレンスは、ゲストハウスの経営を始めた。 1933年、ヒッチンズは再びトラブルに見舞われることとなる。 ------------------------------------------------------------------- (以下当時の新聞記事) トルクアイでの射殺事件 タイタニック号元乗務員禁固刑に。 タイタニック号が氷山に衝突して沈んだ1912年当時、タイタニック号の操舵を勤めていたロバート・ヒッチンズ(51歳、操舵手)が、ウィンチェスターの裁判所に出廷し、11月12日トルクアイでフレデリック・ジョージの射殺を企てたという罪で裁かれました。ヒッチンズは有罪になり5年の禁固刑を言い渡されました。裁判長は、判決文の中で、ヒッチンズの過去の業績を考慮し罪科は軽くした、と述べています。時に、1933年11月30日のことです。 ------------------------------------------------------------------- 1933年11月12日、ヒッチンズは男性の足を撃ち抜き、5年の懲役を受けた(判決文によると通常より軽い刑罰ということである)。彼はメイドストーン刑務所で服役していたと考えられている。服役後、ヒッチンズはサウサンプトンに戻り、1941年の3月か4月頃、ドイツ軍の空襲により死亡したと伝えられている。 妻のフローレンスは1960年代始めに病気により死亡した。 |
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