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4.1 カドフェルが修道士になるまで4.2 Civil Warの勃発4.3 覇権争い終結まで4.4 その後

歴史関連 作品関連
1147 2月16日:フランス王ルイ7世、第2次十字軍を提唱
3月:ヘンリー・オブ・アンジュー、イングランドへ
10月31日:グロースター伯ロバート死去
 
1147-1149 第2次十字軍  
1148 モード、ルーアン(フランス)に撤退  
1152 マティルダ王妃死去  
1153 スティーブン王の嗣子ユースタス死去
ウォリングフォード協定によりモードの息子ヘンリーが王位継承者となることを確認
 
1154 10月25日:スティーブン死去
同日:ヘンリー2世即位
12月19日:ウェストミンスターにて戴冠
 
1165 12月:デイヴィッド1世死去   
1167 9月10日:モード死去   
1170 オウェン・グウィネズ死去   

グロースター伯ロバート
 イングランド王ヘンリー1世の庶子。妻メイベルとの間に五男一女を儲ける。長男は後のグロースター伯となるウィリアム、次男フィリップ、三男リチャード、四男リチャード(バイユー司教)、五男ロジャー(ウースター司教)、長女マティルダ(チェスター伯レイナルフの夫人)。
 この人が存在しなければモード陣営の頑張りも、ヘンリー2世の即位もありえなかったことでしょう。どちらかと言えば「モードの味方」というより「スティーブンの敵」として戦っていた彼ですが、モード陣営の最大の推進力であったことに間違いありません。
 スティーブン寄りの記録には「ロバートは死の前に告解をして赦免を得ることができなかった」(要するに地獄行き)と書いていますが、それだけスティーブン側はモードでもアンジュー伯ジェフリーでもなくグロースター伯ロバートを恐れていたことの証左でもあるのです。
 The Reign of King Stephenの著者も「彼の能力には限界もあったけれど、それでも偉大な尊敬に値する人物であった。勇敢で聡明、かつ不撓不屈の精神の持ち主であった」と賛辞を送っています。

ジェフリー・ド・マンデヴィル
 『陶工の畑』では極悪非道、血も涙もない不遜な輩として登場するジェフリー・ド・マンデヴィル。しかしそれはあくまでも「歴史は勝者のもの」だからなのであって、実際はごく普通の騎士であったようです。彼はずっとスティーブン陣営にいたもののスティーブンの宮廷内に入りこめないことに不満を持ちモード側につきます。が、あくまでも自分(と一族)の利益が最優先と考えており、この考え方が特段異端であったということはありません。スペースの都合で端折 りますが、そんなに悪党ではなかったことは確かです。
 本編にもあるようにジェフリー・ド・マンデヴィルの遺体はロンドンのテンプル騎士団に引き取られましたが、1163年に教皇アレキサンダーV世が赦免を与えるまで埋葬されることはありませんでした。彼の庶子アーナルフ・ド・マンデヴィルはフィリップ・フィッツロバートその他の騎士たちと共に第二次十字軍に参加しています。

フィリップ・フィッツロバート
 本編でも謎多き人物であったグロースター伯ロバートの息子フィリップですが、深いのか浅いのかよくわからない人物です。ロジャー・オブ・バークレーの姪と結婚。1145年当時21歳前後であったということなので逆算すると1124年前後の生まれということになります。
 史実を追う限り極端から極端に走る人物のように見えます。極端さも若さゆえと考えればわからなくもないですが…。父親(=モード)の陣営にいて重要な拠点を任されていたにも関わらず、スティーブンに負けたあとスティーブンの陣営に寝返ってしまいます。寝返った後はかつての味方陣営に対して情け容赦ない攻撃を加えたとか。
 また『背教者カドフェル』ではイーヴを誘拐したフィリップですが、史実ではモードとスティーブンに面会に来た叔父のコーンウォール伯レジナルドを本当に誘拐してます。そしてスティーブンにものすごく怒られて釈放したそうです。彼がなぜこんなことをしたのか理由はわかりません。
 そして十字軍への呼びかけに応じてあっさりイングランドを離れます。1147年、彼は他の貴族と共に十字軍に参加し、再びイングランドに戻ることなく1148年に亡くなっています。病死なのか戦死なのかは不明です。

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