| 年 | 歴史関連 | 作品関連 |
| 1140 | 8月:バースで両陣営の会議が開催される | 春『目撃者』(短編集) 5月『聖域の雀』 9-12月『悪魔の見習い修道士』 |
| 1141 | 2月:リンカーンの戦いでスティーブン王捕虜となり、ブリストル城に幽閉される 4月7日:ウェストミンスターで公会議が開かれる 4月:モード、Lady Of Englandの称号を得るも戴冠できず 夏?:ウィンチェスター襲撃される 9月14日:ストックブリッジの戦いでグロースター伯ロバート捕虜になる 11月1日:スティーブン王とグロースター伯ロバートの人質交換が成立 12月7日:ウェストミンスターで公会議が開かれる |
2月『死者の身代金』 執行長官ギルバート・プレストコート死去 5月25日-6月24日『憎しみの巡礼』 8月『秘跡』 12月1日-1月1日『門前通りのカラス』 ヒュー・ベリンガー執行長官に任命される |
| 1142 | 6月23日:マティルダ王妃フランスへ 6月24日:グロースター伯ロバート、ウェアラムからノルマンディーへ渡る 9月:スティーブン、オックスフォード城を包囲 10月末:ロバート、ヘンリー・オブ・アンジューを伴ってイングランドへ戻る 12月:モード、オックスフォード城から脱出する |
6月『代価はバラ一輪』 10月18日-11月『アイトン・フォレストの隠者』 12月『ハルイン修道士の告白』 |
| 1143 | 7月1日:ウィルトンの戦いでウィリアム・マーテル捕虜となる | 6月『異端の徒弟』 8月『陶工の畑』 |
| 1144 |
9月26日:ジェフリー・ド・マンデヴィル死去 エデッサがイスラム教徒の手に落ちる。 |
4月『デーン人の夏』 |
| 1145 | 2月『聖なる泥棒』 11月『背教者カドフェル』 |
リンカーンの戦い(1141)
スティーブンは良くも悪くも気前が良いのですが、チェスター伯レイナルフに対しても寛大過ぎたこと、そしてスティーブンの欠点である後先考えない行動がこの戦いを引き起こしたと言えます。
1140年、スティーブンはリンカーン城を占拠していたチェスター伯にその所有権を認めます。リンカーン城はリンカーン伯の所有でしたが、1140年にチェスター伯によって占拠されていました。さらにチェスター伯はスコットランド国境近くのカーライルからカンバーランドの所有権も主張していました。こういった地方の土地争いは王の判断によって処理されていましたが、王の浅慮によって、チェスター伯の領地はイングランドの約3分の1を占めるようになったのです。 もっとよく考えてから行動しろよ!とツッコミを入れたくなるスティーブンの行動はこの後も続きます。一旦リンカーンの所有を認めておきながら、強大になったチェスター伯を恐れた周囲の進言により前言を翻した上、1141年の年初、スティーブンはリンカーンへ攻め入ります。
チェスター伯も黙ってはいません。チェスター伯は義父であるグロースター伯ロバートに援軍を依頼します。グロースター伯以下、グロースター長官のマイルズ、ブライアン・フィッツカウントらが終結し、チェスター軍と共にリンカーンへ軍を進めます。
2月2日、聖マリアの清めの祝日にリンカーンの戦いが切って落とされました。グロースター・チェスターの両軍はスティーブンの軍勢を散り散りにし王を捕虜にして凱旋しました。王が捕らえられるまでの経緯は『死者の身代金』に描写されています。
(戦闘の混乱の中でそんな細かいことまでよく覚えているなーと感心しちゃいます)
ところでThe Reign of King Stephenには面白いエピソードが紹介されています。この日の朝7時ごろ行われたミサで、火を灯すために司教からスティーブンに渡された大きなロウソクが突然割れ、床に落ちて消えてしまったという話です。スティーブンはすかさず割れたロウソクを拾い上げ、繋ぎなおして火を灯したそうですが、真偽のほどはともかく、この日の顛末を暗示していると言えましょう。
後の歴史家は、スティーブン陣営がイングランドを完全掌握するチャンスはこの敗北によって潰えた、とみなしています。王が捕らわれの身になっている間に土着の諸侯の力が相対的に強くなり(その分地方のことにそれぞれが専念しているので平和だったとも言えます)、王の力が即位当時に戻ることはありませんでした。
本編関連のエピソードとしては、『憎しみの巡礼』でマティルダ王妃からの請求を読み上げたクリスチャンという人物は実在しました。その後に続く事件は当然フィクションでしょうけど。
ストックブリッジの戦い(1141)・ウィルトンの戦い(1143)
これでモード側が一気に優位に立ったように見ましたが、モードがロンドン市民の不興を買ったりして戴冠できないままになったりと足踏みしているうちに、1141年のストックブリッジの戦いでグロースター伯ロバートが捕虜になってしまい、事態は膠着状態になりました。グロースター伯の損失はモード側には決定的なダメージとなり、2ヶ月後、スティーブンとグロースター伯の人質交換が成立します。人質交換の話し合いはマティルダ王妃とグロースター伯夫人メイベルとの間で行われましたが、お互いに信用できなかったのか、ものすごく面倒な交換方法を取っています。
続く1142年、グロースター伯はアンジュー伯の支援を求めにノルマンディーに渡ります。長い戦いで人的にも財政的にも疲弊していたモード側にはアンジュー伯の支援が必要だったのです。ほぼ同時期に、同じような理由でスティーブンの王妃マティルダもフランスに渡っています。
グロースター伯の不在の間にスティーブンはモードを捕らえようとオックスフォード城を包囲します。今回スティーブンは充分な兵力を持って戦いを進めていました。モード側の唯一の実力者であるグロースター伯は不在、ウォリングフォードに残っていたモード陣営も何もできずただ状況を見守るだけでした。
2ヶ月半におよぶ篭城の後、『ハルイン修道士の告白』にあるようにモードは単身(+3〜5人の騎士とともに)オックスフォード城から脱出します。このあたりの経緯も本編に書かれている通りです。逃避行の途中モードは「この脱出が成功したら、神への感謝の意を表すためにシトー会の修道院を建立する」と誓ったそうです。(なぜシトー会なのか?)そしてその誓いは10年後ノルマンディーの地で果たされたのでした。
1143年、今度はスティーブン側に重大なダメージを与える敗北がありました。モード陣営の重要な拠点であるウェアラムを攻め落とすため、スティーブンはイースターの後軍勢を進めて行きます。モード側にもう余力がないと見込んでの行動だったのですが、さにあらずグロースター伯はウェアラム城の補強を怠っておらず、攻略に失敗したスティーブンはソールズベリーの西、ウィルトンに移動します。
スティーブンはここで仕切り直し、援軍も到着しますが、またしてもグロースター伯ロバートの前に苦杯をなめることになりました。1143年7月1日、スティーブンが夜営を設営しようとしたその時に襲撃を開始し、スティーブンたちはほうほうの態で脱出しましたがウィリアム・マーテルは捕虜となってしまいました。このウィルトンでの敗北により、イングランド南東部におけるスティーブンの勢力が失わることになったと同時代の記録者は書き残しています。こうしてスティーブン、モード、いずれの陣営にもつかず中立を保つ実力者が増え始め、イングランドの王位の行方はますます混迷の度合いを深めて行ったのでした。