HOME

4.1 カドフェルが修道士になるまで4.2 Civil Warの勃発4.3 覇権争い終結まで4.4 その後

歴史関連 作品関連
1124 デイヴィッド1世即位  
1125 スティーブン、マティルダ・オブ・ブーローニュと結婚  
1126 ヘンリー1世、モードを正式な王位継承者として指名する  
1127 ウィリアム・クリト(ヘンリー1世の甥、スティーブンとモードのライバル)死去  
1129 6月2日:モード、アンジュー伯ジェフリーと結婚  
1133 3月5日:ヘンリー・オブ・アンジュー(後のヘンリー2世)生まれる  
1135 12月1日:ヘンリー1世死去
12月22(26?)日:スティーブン、ウェストミンスターにて戴冠
クリスマス『光の価値』(短編集)
1137 3月末:スティーブン、ノルマンディーへ
11月28日:スティーブン、イングランドへ戻る
5-6月『聖女の遺骨求む』
1138 8月:デイヴィッド1世、北イングランドに侵攻 8月:『死体が多すぎる』
   ヒュー・ベリンガー執行副長官に任命される。
12月『修道士の頭巾』
   ヘリバート院長辞任、ラドルファス新院長就任
1139 9月30日:モード、イングランド南部アランデルに上陸
ウースター襲撃される
7月30日-8月5日:『聖ペテロ祭の殺人』
10月:『死への婚礼』
11-12月:『氷のなかの処女』
12月:ジャイルズ・ベリンガー生まれる 

ヘンリー1世の周辺
 1102年に父親を亡くしたスティーブンは、母のつてで伯父であるヘンリー1世の宮廷に出入りするようになります。当時のヘンリー1世の元には本編を読まれた方ならおっ!と思うであろう人物たちがいました。後のスコットランド王デイヴィッド1世、ヘンリー1世の庶子(後のグロースター伯)ロバートと同じくヘンリー1世の庶子であるリチャード、ミューラン伯ロバートの双子の息子、ミューラン伯ウォレランとレスター伯ロバートなどなど。つまりヘンリー1世の宮廷には将来を嘱望された若き騎士たちが集っていたことになります。

皇太子ウィリアムの死
 1120年のホワイト・シップ号の遭難により多くの若い騎士たちが亡くなっています。遭難者にはヘンリー1世の嫡子で皇太子であるウィリアム・アシリングのほか、上述のヘンリー1世庶子リチャード、チェスター伯リチャードなども含まれていました。実はスティーブンもこの船に乗るはずだったのですが、あまりにも多くの人が乗り込んでいたのと体調不良だったこともあって乗船しませんでした。まさに運命を分けた一瞬だったのです。
 歴史に「もし」はないと言われますが、皇太子が死ななかったら、あるいはスティーブンが乗船していたら…イングランドの王位継承はどのようになっていたでしょうか。

ヘンリー1世の死
 1135年11月25日、ヘンリー1世はノルマンディーのルーアン近郊Lyons-la-Foretで狩りの後重体に陥りました。その時スティーブンはブーローニュにいましたが、ヘンリー1世が死の床にあることを知りイングランドに上陸、ロンドンに入り、王の死を受けて塗油(聖別されることによって王として神に認められたことを意味する。戴冠より重要)、戴冠を行いイングランド王となります。
 ヘンリー1世は生前、娘モードを王位継承者に定め諸侯に宣誓させていましたが、アンジュー家とモードの夫であるアンジュー伯ジョフリーにイングランドの支配権を握られることを警戒していました。ノルマンディー公領は南でアンジュー伯領と接しており、皇太子ウィリアム・アシリングの妃がアンジュー伯ファルク5世の娘であったことも政治的なものであったと思われます。
 アンジュー家を警戒していたのならどうしてモードをジェフリーと結婚させたかなぁと正直思いますが、孫息子(後のヘンリー2世)が成人するまで頑張るつもりだったのかもしれません。モード自身は皇帝妃という地位を捨てて10歳も年下の夫と結婚するのが嫌で抵抗したという記録が残っています。

1138年に至るまでのできごと
 『修道士カドフェル』シリーズの背景として当時のイングランドの歴史が色濃くなってきたのは第2作『死体が多すぎる』からです。『死体が多すぎる』p.8に「一一三八年のこの初夏までに、スティーブン王と女帝モードの従兄妹どうしの争いは、はっきりと決着のつかないまますでに二年が経過していた」とあります。ここだけ読むとすでにスティーブンとモードがドンパチやらかしているように思えますが、年表にもあるようにモード自身はまだイングランドには来ていません。実際、即位してからスティーブンは名実ともにイングランドの王でした。
 スティーブン王の同時代の記録は、スティーブン即位後2年間の治世はまずまずの出来であったと記しています。後に彼の敵となるグロースター伯ロバートもスティーブンが王であることに特に(少なくとも表向きは)異議はなかったようです。
 スティーブンのウェールズとノルマンディーでの失策から、王と諸侯の不信と対立が芽生えてきたとされています。強大なヘンリー1世によって骨抜きにされていたウェールズ諸国ですが、王の死後は次第に力を取り戻して行きました。そして1136年、ウェールズ国境を守護してきたリチャード・フィッツギルバート・ド・クレアがウェールズ王に殺された頃からウェールズの本格的な復興が始まります。
 もともとウェールズ国境はグロースター伯ロバートらが守ってきたのですが、この時スティーブンは彼らを国境の守護に向かわせようとせず、少数の無力な部隊を送り出しただけでした(当然のことながら彼らは何もできなかった)。ウェールズの支配権はウェールズ人の王の手に戻り、王の支援が全く見込めないグロースター伯ロバートは、ウェールズとの友好条約と引き換えに多くの土地を譲渡する破目になったのです(グロースター伯領はウェールズと国境を接している)。ロバートだけでなく他の辺境伯たちもスティーブンに不信感を持つ契機となった事件でした。
 そして海を隔てたノルマンディーでも同様の事態が起きていました。王の不在の間にアンジュー家の侵攻が開始、幸運にもノルマンディーはミューラン伯ウォレランらによって事無きを得ましたが、敵を叩いてもう大丈夫と安心したスティーブンは、スコットランドのデイヴィッド1世の侵攻を知りイングランドに戻ってしまいます。王が不在となったフランスで、アンジュー家が着々と反撃の準備を進めることなど考えもせずに…。

1138年−スティーブン最初の危機
 スティーブンはミューラン伯ウォレランや弟の司教ヘンリーを重用(偏愛)する一方で、グロースター伯ロバートを始めとする辺境伯たちの処遇についてあまり注意を払いませんでした。ヘンリー1世の時代に重用されていた貴族たちを閉め出し、ごく一部の側近だけで固めたスティーブンは、自然とかつての有力貴族たちの反感を買うようになりました。 1138年のスコットランド軍の北イングランド侵攻に始まった一連の戦い、その原因の一端はこのようなところにもあったのです。
 スティーブンはどんな人物だったのか? The Reign of King Stephenの著者ははっきりと「スティーブンは女と子どもに弱い」と書いています(笑)。 1138年の戦いでもラドロー攻めを避けたのも「亡き城主の妻が城を守っていたから」という由。女性相手には絶対に戦いを仕掛けなかったそうです。モード陣営に対してイマイチ強気に出られなかったのもこの辺の性格が災いしていたのかもしれません。
 スティーブンは女性関係も慎ましく、マティルダと結婚する前に関係していた女性もひとりだけでした。スティーブンとマティルダは身分の釣り合いでした結婚にも関わらず琴瑟相和し、その女性とも結婚を機に別れ、その後愛人を持ったという記録は残っていません。まぁしょっちゅう戦争していたら女を囲う暇もないでしょうが、性のモラルについて言えば非常に近代的な君主であったと言えるでしょう。
 ヒュー・ベリンガーの言葉を借りれば「戦士としては非常に有能」であったわけですが、王としてはやや思慮に欠け気まぐれな面があったことは否めません。マネージメント能力ではマティルダ王妃の方が二枚も三枚も上でした。そう考えるとスティーブンは有能な妻に恵まれ、なんとなく窮地を脱してしまう、幸運というか才能があったように思えます。

▲TOP