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4.1 カドフェルが修道士になるまで4.2 Civil Warの勃発4.3 覇権争い終結まで4.4 その後

歴史関連 作品関連
1066 ノルマン・コンクェスト
ウィリアム1世イングランド王に即位
 
c.1068 ヘンリー1世生まれる  
c.1080   カドフェル・アプ・メイリール生まれる
c.1084 スコットランド王デイヴィッド1世(モードの伯父)生まれる  
c.1090 ヘンリー1世の庶子ロバート(後のグロースター伯)生まれる  
1096-1099 第1次十字軍
エルサレム王国建国(1099〜1299)
カドフェル十字軍に参加
c.1096 スティーブン・オブ・ブロワ生まれる  
1100 8月2日:ウィリアム2世死去
8月5日:ヘンリー1世戴冠
オウェン・グウィネズ生まれる
 
1102 2月:モード生まれる  
c.1106 スティーブン、ヘンリー1世の宮廷へ騎士見習いとして行く  
c.1113-1114   オリヴィエ・ド・ブルターニュ生まれる
ヒュー・べリンガー生まれる
1114 モード、ハインリッヒ5世と結婚  
1120 12月20日:La Blanche Nef (White Ship) 号遭難。ヘンリー1世皇太子ウイリアム・アシリング死去 『ウッドストックへの道』(短編集)
カドフェル修道士となる

十字軍とカドフェル
 1095年、聖地エルサレムを奪回するために、時の教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で十字軍の結成を呼びかけました。最初に聖地に赴いたのは隠者ピーターらに率いられた民衆たちでした。1096年の晩秋にコンスタンチノープルに到着しましたが、戦闘の素人である彼らは当然の如くトルコ軍によってあっという間に虐殺されました。その後騎士たちが続々と聖地に向かい、アンティオキアでの約7ヶ月間に渡る悲惨な包囲戦を経験したのち、1099年7月15日エルサレムは陥落し、エルサレム王国が建国されました。
 エルサレム王国の初代国王にはエルサレム攻略に貢献したゴドフロワ・ド・ブイヨンが選ばれました。多くの騎士たちは聖地を取り戻したことに満足し帰郷の途につきましたが、騎士であっても土地を持たない人々など、現地に留まることを選んだ人々もいました。カドフェルの場合はどちらでもなかったようですが、3年ほどでアンティオキアを去った後も地中海諸国あたりで暮らしていたことが小説中に記されています。また、聖地に赴いたばかりの若い頃にマリアムと出会ったこと、「熟練の船乗りとなって」アンティオキアを去ったことも書かれています。
 こういった記述から、カドフェルがマリアム・アリアーナ・ヴィアンカに出会ったのはいつ頃だったのか推理してみます。エルサレムに到着する前に寄り道するとは考えにくい(したかもしれませんが)ことから考えて、

   @エルサレムを奪回し十字軍の目的を果たす。マリアムに出会う。
   Aアンティオキアを去り、地中海沿岸で船乗りとなって働く。
   Bアリアーナとヴィアンカに出会う(?)。

の順ではないかと思います。カドフェルは自分の子の存在を知りませんでしたので、1112年頃を最後にアンティオキアには足を踏み入れなかったことが推測できます。
 そして「一度、帰国したとき、消息を尋ねてみたら」(『ウッドストックへの道』)とあることとそれに続くアラードの言葉から、アンティオキアを発って一旦イングランドに戻り、その後ノルマンディーに再び渡ったことがわかります。また『聖なる泥棒』でテューティロがオック語の歌を歌ったことを理解できたことから、南フランスにもしばらく滞在していたらしいことがわかります。

 カドフェルが大陸で暮らしていた時代のフランスは最も王権が弱く、ノルマンディー公家、アキテーヌ公家等が広大な領地を所有し、カペー家(フランス王家)の支配地域はパリとその周辺地域だけに限られていました。スティーブンの出自であるブロワ家(ブロワ・シャルトル家とも)の所領は決して広大なものではありませんが、西でカペー家、北でノルマンディー公、南でアンジュー家の領地と接するという要所を占めていました。ヘンリー1世が娘(モード)をアンジュー伯の息子と結婚させたのも国境対策を見据えてのことだったと思われます。
 20巻『背教者カドフェル』の冒頭の系図を見てわかるように、初代エルサレム国王となったゴドフロワ・ド・ブイヨン及び2代国王ボールドウィン1世は共にブーローニュ伯ユースタス3世の弟で、王妃マティルダの叔父に当たります。あの女傑ぶりはこの辺の血かもしれません。

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