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元治元年=黒船のペリー来航以来の激動の最中。この年には明治維新を1年遅らせたと言われる『池田屋事件』も起きている。 |
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公用人物書=今で言うスパイのような仕事とあって彼の様子を詳しく記すものがあまり残っていない。 |
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藩主=松平溶保。当時、京都守護職として京都の治安を守る職にあり、京都詰であった。 |
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女学校=明治となった日本では1872年(明治5)から女子教育が学校という形で行われるようになる。宣教師によって私塾としての設立も多かったが、実際に教育を受けられる女性は限られていた。横浜には戊辰戦争で負けた会津藩士や幕臣の家臣や師弟などが多く集まっており、その中にはのちに明治学院を設立する元会津藩士の井深梶之助、妹のたみもいる。たみは賎子と共にミス・キダー学校に入学し、ともにフェリス女学院で教鞭を取った。 |
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明治女学校=賎子たちは校舎と同じ棟に住んでいたと言う。1891年(明治24)の学校校則一覧には明治学院卒業生の島崎藤村、北村透谷、戸川秋骨、戸川安宅、桜井鴎村なども教師として名を連ねている。火災の後、巣鴨庚申塚に再建されるが、1908年(明治41)に廃校。 |
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山川捨松=会津藩家老山川大蔵の妹であり、後に大山巌の妻。明治4年に欧米使節団と共に派遣された女子留学生の一人。賎子がフェリスを卒業した同じ年に留学先の米国で最古の女子大ヴァッサー・カレッジを優秀な成績で卒業している。彼女も明治期に外国で学んだ女性として活躍した一人と言える。詳しくはいずれこの場で取り上げたい。 |
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鹿鳴館=明治政府の不平等条約改正という悲願達成のために井上馨の手によって作られた外国人接待の場所。1883年(明治18)11月28日東京麹町山下町にオープン。設計は英国人建築家ジョサイア・コンドル。建築費は現在の金額に換算するとおよそ40億円といわれる豪華な建物であった。昭和15年に解体され、現在は大和生命ビルとなっている場所に碑がある。江戸東京博物館で模型が見られます。 |