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「懐中時計」

 

いつもと何ら変わりない1日の始まり。

朝起きて、コーヒーだけを飲みアパートから歩いて10分ほどの所にある駅に向かう。

駅員に定期を見せ改札を通りぬけて、毎日同じ時刻の電車に乗る。

定時まで働き、会社から駅に向かう途中、少し前に開き店舗に

なっていたところにまた違う店が入っていることに気づいた。

どうせ永くは持たないだろうなどと思いつつ店の様子を見ると、

どうやら、アンティークの時計を売っている店のようだ。

私のような安月給のサラリーマンには手の届かないもの

ばかりだろうと思たが、なんとなく店に立ち寄ってみることにした。

店の中には誰もおらず、なんとなくショウケースの中をのぞいてみると、

銀製らしい懐中時計が端のほうに置いてある。

特に飾り気もなくシンプルなデザインの懐中時計だが、なぜか私の興味を引いた。

「何か気に入ったものがありましたか。」

突然声をかけられ、少し驚いて顔を上げるとショウケースの向こうにまだ

20代前半と思われる若い女性がいつのまにか立っていた。

「え、ええ、あの懐中時計ちょっと見せてもらえますか。」

買う気はなかったのだが、このまま店を出るのも気が引けてさっきの懐中時計を

見せてもらう事にした。その時は、もう少し考えてみるとでも言って店を出るつもり

だったのだが。

「これですか。」

と言ってその女性が銀製の懐中時計を取り出した。

「高いんでしょうね。こうゆう物って。」

そう、懐中時計の蓋を開けつつ尋ねると、

「そうですね。こう言った物は安くはありませんが、それだけの価値があると思います。

 ここにある物は皆、昔の職人が作ったものばかりで、それぞれにいろんな思いが

 こめられていますから。」

そう穏やかに答えると、もうひとつ、綺麗な装飾の施された懐中時計をとりだす。

表面には細やかな彫刻が施されており、私が手にしている物とは対象的なものだ。

「これは、モーリスと言う人の初期のころの作品です。あなたが手に持っているのも

 同じ人の物なんですよ。」

「へえ、そうなんですか。」

驚きつつ、自分が手にしている懐中時計をもう一度見なおす。

「しかも、それは彼が最後に作ったといわれている物なんです。」

その言葉はさらに私を驚かせた。同じ職人の物だと聞いて、てっきり私は自分の

持っているほうが、まだ、彼が駆け出しの頃にでも作ったものなのだろうと思っていた。

「不思議でしょ。なぜ彼が最後に作ったのが何の飾り気もない

 何処にでもあるような物なのか。」

「ええ。」

それでも、私の興味を引いたのは、今手に持っている何の飾り気もない

懐中時計のほうだった。

「ずいぶんとそちらが気に入られたようですね。」

「どうしてそう思うんです。」

なんだか見透かされているようで、なんとなく私がそう言うと、

「私がこれをお見せしたのに、あなたは手にとって見ようともしなかった。」

そう言って、彼女は微笑んだ。

「いや、そっちはとても私なんかが買えるようなものじゃなさそうなんで。」

「あら、あなたが持ってるほうが遥かに高いんですよ。」

そう言われて自分が手に持っているほうが、モーリスと言う職人が

最後に作ったものだと言われた事を思い出し、苦笑した。

「そうでした、これは最後に作られたものでしたね。」

「何も、それだけが理由じゃないんですよ。そのわけはもうお分かりでしょ。」

「ええ。」

こう言った物の価値などさっぱりわからないが、この懐中時計に関しては

なんとなく分かるような気がする。

ショウケースの中にこれが無ければ、どれもすばらしいものに見えただろうが、

私の興味を引いたのはこの懐中時計だけだった。

「安くお譲りしましょうか。」

「え、いいんですか。でも私なんかにはとても買えそうに無いな。」

そう言ったあと、大きなため息をついてもう一度、手に持っている懐中時計を

見つめなおす。

「1万円、調度でいいですよ。」

「そんなに安く売って大丈夫なんですか。」

「ええ、この店も趣味ではじめたようなものですし、あなたはこの店の

 記念すべき最初のお客様ですから。」

幾ら価値がわからないといっても、ここにある物がそんなに安いわけが無い

事ぐらいは見当がつく。

或いは、かつがれて安物を高く吹っかけられているのではと言う考えが頭を

よぎったが、この懐中時計ならまあ、それでもいいだろう。

セコイ話だが、結局、彼女の趣味でやっているようなものだと言う言葉で

決心がついた。

私はてっきり彼女は雇われの店員だと思っていた。

このご時世に、この若さで趣味でこの様な店を持てるんだったら親が

それなりの資産家か何かなんだろう。

「それじゃ、これ下さい。」

そう言って一旦、懐中時計をショウケースの上に置いて財布を取り出し、

その中に1枚だけあった1万円札と500円硬貨1枚を取り出して彼女に渡した。

「込みで1万円で結構ですよ。」

そう言って、硬貨を私に差しだし、私も500円硬貨1枚について彼女と押し問答

するのもみっともないような気がして素直に私は受け取った。

その後、懐中時計をケースに入れてもらい、私は彼女にお礼を言って

店を後にした。ちょうどいつも乗っている電車が駅につく少し前だったので、

その日は本屋に寄らずまっすぐに家に帰った。

翌日、なんとなく身に付けておきたくて昨日買った懐中時計をポケットに

忍ばせて会社に向かい、昨日の店の前を通るとまだシャッターが下りた

ままだった。

この時間、まだ殆どの店のシャッターは下りているため別段不思議には

思わなかったが。

この日も残業も無く定時に仕事が終わった。

帰りになんとなく昨日の店を覗くと、60歳ぐらいの中年の男性が

ショウケースの向こう側に立っているのが見え、少し彼女のことが

気になって、ふたたび店に立ち寄ってみた。

「いらっしゃませ。」

私が店に入ると、ショウーケースの向こうにいた男がそう答えた。

「すいません。店長さんいらっしゃいますか。」

「私がこの店の店長です。」

「え、じゃあ昨日のこの時間にいた方は・・・。」

「昨日のこの時間ですか。その時間は私しかいませんでしたよ。

 開店したばかりで、客も一人も来ませんでしたし。」

「え、でも私は昨日この時間にこの店よったら、若い女性の方が出てきて

 これを買ったんですけど。」

と言って、昨日買った懐中時計をその男に見せた。

「ご冗談を。それにそれは内の商品じゃありませんよ。」

「え。」

「見ればすぐに分かりますよ。そんな飾り気が何も無い時計は

 内には置いてありません。」

さっと、店内を覗くと確かに昨日並べてあったものとはちがう。

昨日のこの店にあったものと比べたら、なんとなく大した物では無い様に見える。

納得はできなかったが、食い下がったところで変な目で見られるだけだと思い、

「あ、じゃ記憶違いで店を間違えたのかもしれません。どうもすいませんでした。」

と言って、そそくさと店を後にした。

店から少し離れた所で立ち止まり、あらためて懐中時計を見なおす。

店のほうを振り返ってみてみるが、確かにこの懐中時計を買ったのはあの店だ。

そのことは、間違いようが無い。このあたりにアンティークの時計専門の店は

あそこしかないのだから。

幾ら考えても、答えは見つからない。

「考えても仕方が無いか。」

そう思うと気持ちも楽になり再び歩き出し、いつも立ち寄っている書店に

入って行った。

そして、ふたたびいつもと変わらぬ日常が繰り返される。

 


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