ロベリアSS「貴婦人の肖像」

第二章 「花の巴里」

(3)

  坂の街・モンマルトルから、やや南に降りたオペラ座の近くに、緒方夫妻は
宿をとっていた。飛びぬけて高級でもなければ、著しく低級でもない、ほどよ
く品のある、外国人が泊まるにはごく普通のホテルである。
  盗難事件によりメンツが落ちることを恐れたホテル関係者は、捜査に全面
協力していたから、巴里市警も滞りなく捜査を行っていた。

「おい、窓際の指紋も見落とすなよ。目撃情報の聞き込みも抜かるな!」
  巴里市警の敏腕警部、ジム・エビヤン警部は、もっさりした外観とはうらは
らに、警官としての実績たるや実に誇らしいものであった。今年は遂に、
あの『巴里の悪魔』ロベリア・カルリーニを逮捕し、ホッと一息ついたところ。
悪人を追いかけ続けて二十余年、あとは花嫁を捕まえるだけと、軽口をたたく
日々だったけれど…

「失礼します、エビヤン警部。お仕事中、すみません」
  きびきびと働く警官たちに敬礼し、大神は警部に声をかけた。
「やあ大神くん、被害に遭った日本人画家というのは、君の知り合いだそうだ
ね。君も心配なことだろう」
「ええ、無理を言って、犯行現場を見せていただきたいなどと申しました。
緒方さんは来週にも巴里を離れる予定なので、少しでも捜査のお手伝いをと
思いまして……」
  心配には及ばんよ、と胸を張った。その真面目そのものの刑事の顔が、
次の瞬間には、だらしなく溶けていってしまうとは……
「あ、あ、あなたは、サフィールさん!!ど、どどど、どうしてここに?!」
「ごめんなさぁい警部さん、お仕事中にお邪魔しちゃって…。恐ろしい事件が
起こったって聞いたものだから、警部さんがどうしてるのか気になって…」
  シャノワールの踊り子・サフィールは、さすがにあの露出度の高いレビュー
コスチュームではなかったけれど、体のラインがくっきりと浮き出るしなやか
なドレスに、軽いショールを羽織っていた。およそ、事件現場には似つかわし
くない美女である。
「そ、その…サフィールさんに事件のことを話したら、どうしても警部の陣中
見舞いをしたいというものですから、案内した次第で……」
「い、い、いやぁ、サフィールさんのような美しいご婦人に、こんなところに
おいでいただくなんて…恐縮しきりです」
  そう…勤勉実直な巴里市警警部ジム・エビヤンは、恋に落ちてしまったのだ。
あろうことか、その美女サフィールが、宿敵ロベリアの仮の姿とは…
  もちろん初対面の時は、あまりにロベリアに似ているから驚いていたけれど、
よもやシャノワールが店ぐるみで彼女をかくまっているとは、思い及ばなかっ
たらしい。というか、サフィールの演技力と妖艶さに、あっさり陥落してし
まったというか…。以前から店には出入りしていたけれど、いまやサフィール
のレビューには、花束を欠かさないありさまなのだ。

「どーこが『こんなところ』ですってーっ  失礼センバンでーすっ」
  しなを作る踊り子と惚ける警部の間を掻き分けて、黒髪の令嬢が立腹しなが
ら飛び込んできた。
「や、や、これはソレッタ家の令嬢…『こんな』と申したのは、むさくるしい
警官どもがうろついている…という意味でして。ご旅行中にとんだ災難に遭わ
れましたこと、お見舞い申します。だが、ご安心ください。我が巴里市警の力
を以ってすれば、お父上の絵はすぐに取り戻せること間違いありません」
「ホントですか〜?約束してくださいね、どんな大泥棒でも、ちゃんと捕まえ
てくださいよー!たとえば…『ロベリア・カルリーニ』であっても」
  警部は、一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、すぐに破顔一笑となった。
「いやあ、よくご存知ですなぁ。あの悪党の噂は、世界中に広まっているとみ
える。だが、今回の事件はヤツの仕業ではありませんよ。あいつは監獄の中で
すからな。確かに、あいつには手こずりました。長年犯罪捜査に携わって
おりますが、あれほどの悪党には、なかなかお目にかかれない」
「え〜っ  イヤ〜ン、そんなに怖い人なんですか…ロベリアって」
  織姫は不安そうにおびえながら、上目遣いで警部を見つめた。当のロベリア
を横にして、よくまぁこんな口がきける。大神は呆れるばかりだった。
「ああすみません、怖がらせるつもりではなかったんですよマドモアゼル。
だいじょうぶ、ご安心なさい。ロベリアはレイモン卿襲撃事件でがっちり逮捕
され、サンテ刑務所に収監されているんです。しかも、ただの牢屋じゃない。
特別牢獄なのであります」
「まぁ〜  特別牢獄って、いったいどんなところですの〜」
  普段の低い声が想像できない、艶めいた裏声を発してロベリアは、まるで
他人事のように問い掛けた。薄い空色の瞳を、挑発的に輝かせて。眼鏡を外し
衣装を変えただけで、これほど別人に見えるとは…まったく大した大泥棒だ。
「サフィールさんのような美しい方には、当然縁のないところでありますよ。
地下深く掘られた牢獄に、堅牢な石壁が貼られていまして、とても抜け出せる
ようなもんじゃありません。その上ロベリアには、厳重な拘束衣が着せてある
んです。なにしろ奴は、炎を自在に操る『悪魔』ですからな」
  ふう〜ん、と娘たちは、しらばっくれてうなずいた。どうやら二人とも、
餌代の要らない『猫』をかぶっているらしい。
「もちろん奴の拘束衣には信号がついていて、外されたら即座に刑務所長の
知るところとなる。刑務所自体が陸の孤島と呼ばれ、高い物見塔付きで常時
監視されてますから、いかに『巴里の悪魔』といえど、逃げ出すことなど
とうてい不可能ですな」
「キャア〜 そんな大泥棒を捕まえるなんて、やっぱり警部さんて立派なのね。
ス・テ・キよ〜ん」
「その調子でーす!はりきって、パパの絵も見つけてくださいね〜」
  サフィールと織姫に飛びつかれた警部は、年甲斐もなく照れまくっていた。
両腕の娘たちが、下心満載でいるのにも気づかず。

(ふん…せいぜい働きな、この税金ドロボー)
(パパの絵を見つけられなかったら、タダじゃ置かないですからねー!!)
「いやいや、本官まさしく『両手に花』というやつですな。
これはいっそう、職務に励まねばなりませんな!!がんばるぞーっ」
  やれやれ…と、大神は深いため息をついた。

  ホテルを出てからというもの、ロベリアは一言も発しなかった。話し掛けて
も、うるさいと一喝して、取り合わないのである。眼鏡を外しているせいで、
眩しそうに目を細めながら、足早に現場を離れた。
「どうだったロベリア、犯行現場を見てみて……」
   馴染みのカフェに陣取り、真紅のワインで喉を潤してから、ようやくと
取り付く島が出来たようだった。
「…そうだな、こいつは思ったより、やっかいなことになるかもしれないぜ」
  なぜだい?と大神が問い掛けたけれど、不機嫌な猫のようにツイと横を向い
ている。その冷たい横顔すら、それこそ絵画のように美しいのはなぜか。
「証拠が、あまり残ってなかったからかい?」
「ああもう、話にならないから、そんな口は縫いつけちまいな。
ついでに、その眉毛の下にあるもんも、役に立たないならくり抜いて銀紙でも
貼り付けちまえ、バカがっ」
  いつもながら、あんまりな言いようである。さっきまでの上品ぶりはどこへ
やら、ひどい訛りのうえ、このぞんざいな口のききよう。彼女の真意を伺うに
は、口先だけでは上手くいかない。謎が謎呼ぶ、秘密に包まれた女ごころ。
「警察も、犯行現場からいくつか証拠を見つけたみたいだね。今、科学捜査班
がとりかかっているらしい」
「ああ…まぁ連中もそうバカじゃないから、地味に働いてりゃ、いずれはなん
とかなるだろう。早くて半年…下手すりゃ何年もかかるだろうがね」
「そんな…!緒方さんたちは、来週にはローマに行かなきゃならないんだ。
織姫くんたちだって、東京に帰るんだし…」
  ロベリアは、ふと口を開いたが、言葉を飲み込んだ。そんな時彼女は、
なにか辛そうな、苦々しい表情を浮かべる。
「アタシのみたところ、今回のホシは素人に毛が生えた程度だ。
証拠を残し過ぎてる。プロの仕事じゃない」
「じゃあ、プロの泥棒の仕業ではない、と?」
「いや、ソレッタの奥方の宝飾品には目もくれず、絵だけを盗んでいったんだ。
一応は、その筋の人間だろう。アタシもちょっと調べてみたんだけどね、
あの緒方って奴の絵は、本人が思っているより価値があるらしい」
  そうなんだ…とつぶやく大神に、やれやれと首を振った。
「だからアンタは、ボンクラ隊長だって言ってるんだ。いいか、今巴里では
欧州博覧会が開かれていて、中でも日本のパビリオンは人気が高いんだ。
なにしろ地球の裏側だし、ついこないだまで鎖国してたから、情報もモノも
よく分からない。そこに、西洋絵画の技法を学んだ緒方の絵だ。しかも超一流
ってわけじゃないから、値段も手ごろ。知らぬは当人ばかりなり、ってか。
  言わせてもらえば、そんな絵をフロントに預けず部屋に置き去りにしてたの
がマヌケなんだよ。盗ってくださいって、頼んでいるようなもんだ」
「だが…それだけ遺留品が残っていて、なおかつ足取りがつかめないというと
…つまりそれは……」
「いいぞ隊長、もっと頭を使うんだよ。頭を使わないとバカになるし、
体を使わないとデブになる」
  秋の午後の日差しの中、ロベリアの銀髪はキラキラと輝き、細く切れ長の瞳
と、皮肉めいてゆがんだ口元が、こちらをまっすぐとらえている。
常に緊張を強いられるそんな対峙を、明るい声が破った。

「イチロー、お茶してたの?市場のお手伝いが、やっと終わったんだよ。
あれ、ロベリアも居たの…」
「悪いかよ、ガキが…大人の話に首突っ込むんじゃねぇ!」
「構わないよ、コクリコ。おいで、なにか飲むかい?」
  コクリコは少し迷ったけれど、大神の隣にちょこんと座り込んだ。ピンクの
セーラー襟のパンツルックに、共布で作った筒型の帽子をかぶっていると、
一見元気な男の子がいるようにしか見えないのが、彼女らしい。
「じゃあ、シトラス・プレッセ!これ、すごく美味しいんだよね。
ボク大好きなんだ。ありがとう、イチロー!」
  得々としながらジュースにありつく様子はとても幸せそうで、その笑顔を
見ていると、こちらも幸せな気分になってくる。どんなに辛いことがあっても、
涙をみせない。その思いだけが、コクリコを支えてきた。そうしなければ、
生きていられなかった。そのことは、とても悲しいことだけれど…
「そうそう、街の人たちに聞いてみたんだ。絵のことを知っている人は全然
いなかったんだけど、いろいろな話が聞けたよ。まず…日本の文化って、
巴里の人たちの間では、ブームになってるらしいよ。欧州博覧会のおかげで、
日本の絵とか、お茶碗とか、風習とかには人気があるんだって。
日本の人が着る服…ええと、キ、キ、…」
「着物のことかい?」
「そうそう、そのキモノっていうの、それを着て写真を撮ったりするのが、
女の人たちの流行になってるらしいよ。緒方さんの絵を盗んだ泥棒も、
そういう絵を欲しがってる人に、売ったんじゃないかって」
  ふと見ると、ロベリアがフフン、と鼻で笑っていた。それは自分の捜査と
コクリコのものが一致したからなのか、それとも…
「ありがとう、コクリコ。ずいぶん苦労したんじゃないかい?」
「そんなことないよ。お手伝いをしながら、ちょっと聞いただけなんだから。
そうそう、いまの話は全部、イチローのおかげで仕入れたんだよ」
「俺の…?」
「そうだよ。絵を盗まれた日本人はイチローの友達なんだって話したら、
それじゃあ力にならなきゃって、みんな言ってくれたんだもん。イチローが
この巴里で頑張ってるから、みんな協力してくれたんだよ。さすがだね!」
  そうかな…と大神が照れると、ロベリアは何も言わずに乱暴に立ち上がり、
二人に背を向けた。
「あ、ロベリア…この間はありがとう。ボク、こんなに元気になったよ!」
「ふん、そいつは結構だな。隊長、アタシはもう少し調べを続けるよ。
ワインは必要経費だから、ちゃんと払っとけよ」
  大股で立ち去る深緑の背中を、しばらく無言で見送ってしまった。

「コクリコ…ロベリアに何かしてもらったのかい?」
「うん、この前ボク風邪ひいちゃったでしょ。あの時、ロベリアが風邪薬を
作ってくれたの。すっごく苦かったけど、すぐ治ってステージに出ることが
出来たんだ」
  残りのジュースを大事に飲みながら、嬉しそうにコクリコは続けた。
「ロベリアが、ママから教わった薬なんだって。でもね、他の人には言うなっ
て、怖い顔で言うんだよ。えへへ、イチローには話しちゃったけどね」
「へぇ…ロベリアもいいところがあるんだなぁ…」
  それから、コクリコの顔から無邪気なところが消えて…少しうつむきかげん
で、つぶやいた。
「イチローは、ロベリアのこと『いい人』って思う?」
「えっ?ああ、そうだな…最初に会った頃よりも、ずっといい人だと思うよう
になってきたよ」
  もうすっかり水と氷ばかりになっているグラスの中を、ぐるぐるとストロー
でかき混ぜながら、考え考え口を開いた。
「ボクもね、最初は迷ってた。ロベリアはいい人なんだろうか、悪い人なんだ
ろうか…って。でも、このごろ感じるんだ。ロベリアは『いい人』って思われ
たくないんだ、って」
  大神は少し混乱しながら、どういうことだい、と問い返した。いい人だと
思われたくない人なんて、いるのだろうか。人に好かれたいと思わない人は
いない。でも、ロベリアに人を拒絶する傾向があることは、確かだ…
「いい人だって思った人が悪いことをしたらさ、ガッカリするじゃない。
ボクらみんな、ロベリアが悪いことしてきたって知ってるんだもん。いい人
だって思っても、今までがこうだったんだ、これからもきっと悪いんだって、
やっぱり思っちゃうよ、みんな。だから、ロベリアは決めちゃったんだよ。
みんなが悪く思うなら、とことん悪くなろうって。いい人だなんて思われる
のは、イヤだって…」
  史上最凶の大悪党、懲役1000年の極悪人。情け容赦を知らず、目的を
達成するためなら手段を選ばない。なら、誕生日のケーキはなんだったんだ?
あの朝エリカを迎えに来た思いやりは、偽善だったのか?
「いい人か悪い人か、そんなことじゃないんだよ。ロベリアがイヤなら、
いい人かどうかなんて考えないよ。本当に大切なのは…ロベリアのことを、
好きかどうか…そうでしょ?」
  そうだ…俺にしたって、彼女を自分の都合のいいように考えているだけなの
かもしれない。指揮官としてはもちろん、素直に指示に従って、有効な成果を
挙げてくれる部下がありがたい。正義と平和を守る強い使命を抱いてくれれば、
申し分ない。
  でも、本当のロベリアを…ありのままに受け入れようとしているか?
更正を強いることなく、すべての過去を認めて、未来に進むことができるか?
組み合わせた両手の指を見つめながら、大神は自問したが…答えは出なかった。
これまでに、都市を脅かす敵との壮絶な戦いを生き抜いてきた。身を切るよう
な別れがあり、途方に暮れるようなトラブルも経験してきた。でも…闇の中を
生きてきたロベリアの心と向き合うことは、これまでの人生の中でも最も
困難な命題のような気がする。
「ボクだって、ロベリアのことはコワイよ。でも…分かるような気がするの。
ううん、分からなくちゃいけないんだ」

《そう……虐げられた魂を、分かち合う者なのだから…》

「えっ?どうしたんだ、コクリコ!」
  一瞬、別人のように見えた。当人は、キョトンとして、何事かとこちらを
見つめているが。
「だ、だってさ、ロベリアは自分が悪いってちゃんと言うもん。本当に悪い人
は、いい人ぶるもんだって…ボク知ってるから。でもでも、一番いい人は、
見た目も中身もいい人だよね、おひげのおじさんや、イチローみたいに!!」
  屈託の無い笑顔には、先ほどの異様な気配は微塵もなかったから、大神も
つられてにこりと微笑んだ。

「いくらなんでも…この量は多過ぎではないか、花火?」
「あら…きちんと食べなければいけないわ。舞踏会の間は、お食事も十分に
摂れないでしょう。それに、あなたには大切なお仕事があるのだし」
  ブルーメール邸では最近、正式なアフタヌーンティーが執り行われている。
なにしろ最近花火が英国式茶会に熱中しているものだから、グリシーヌにした
ら文句の付けようがなかった。日当たりの良い中庭のテラスでは、優美なフラ
ンス式庭園の緑を背景に、テーブルセッティングが為されている。元々、日本
の茶道に通じた花火のこと、格式ばったマナーもそつなくこなしてしまう。
  まずリネンは、清潔なクロスを二枚重ね、レースをほどこしたナプキンを添
えた。カトラリーは言うまでもなく、上等な銀器をピカピカに磨き上げてある。
ブルーメール家88人の優秀なるメイドたちの、面目躍如たるところ。
  茶器はリモージュの窯元に特注した、ブルーメール家の家紋入りの逸品。
深い青と金が絵付けされていて、もちろん門外不出の品である。
  グリシーヌさえもが圧倒されたのが、ケーキスタンドからこぼれそうな
ケーキ類だった。花火と女中のローラが、手空きのメイド総動員で作った
お茶菓子たち…薄茶と白のパンで作られたサンドイッチ、スコーン、マフィン、
ビスキュイ、タルト…取り敢えずは、お気に入りのラデュレのマカロンに
手を伸ばす。次には静かな押しの強さで、サンドイッチを薦められた。
「でも、舞踏会で貴族たちから『貴婦人の肖像』の手がかりを得ようと考える
なんて、さすがねグリシーヌ」
「まあな…ああいった盗品は、そこそこ財力のある者しか手に入れられん。
しかも連中の下品なのは、そういった恥ずべきいきさつでも、人に見せたがる
ということなのだ。警察では無理でも、同じ貴族という気安さから口を割るか
もしれん。いずれにせよ…その時はあの泥棒女も、年貢の納め時というものだ」
「ロベリアさんが、絵を盗んだ犯人だというの?でも、彼女は犯行時間には
シャノワールに居たはずよ。第一、なんのために…」
  そんなもの…と、蝿でも追い払うようなしぐさで手を振った。
「あんな悪党に、理由など求めても始まらん。おおかた退屈の虫が騒いだのだ
ろう、手癖の悪さは死んでも治りそうにないからな。それより…お前は一緒に
来ないのか。二人で分担すれば、捜査がはかどる」
「だめよ…今日はレビュー服を繕わなければならないんですもの。明日は
コーラスの練習だし。そうだわ…時間まで、一緒に練習してくれない?
せっかくレニさんに指導していただくんですもの、恥ずかしくないくらいに
仕上げておきたいの」
  女学校時代と少しも変わらない、内気で、そのくせ真面目で一途な花火。
よくここまで立ち直ってくれた…シャノワールの舞台に出演するようになって
からというもの、日に日に明るさを取り戻している。たとえ深い海に沈んだ
夫への想いを、忘れることはなくても…死者の魂も、今の彼女の様子を喜んで
くれるだろう。
「それはあなたも同じよ、グリシーヌ。あなたは役目上って言うけれど…舞台
の上のあなたは、本当に輝いているわ。なにからも解放されて、とても素敵な
表情をしているもの」
  黒髪を揺らして、にっこりと微笑む親友の言葉。わたくしが…解放されてい
る?そうかもしれん…由緒正しきノルマンディー公の血を継ぐ、ブルーメール
家直系の子孫……家名を背負い、貴族の誇りと気品を守り続けることに疲れ、
空しさすら感じていた。貴族のたしなみとして諸芸に秀でてはいたけれど、
芸を売るのは最も下賎な身分の者のすること。そう思っていた…
  でも…センタースポットの中で歌い踊る時、貴族の血も、ブルーメールの重
みからも離れ、踊り子「ブルーアイ」として自分を充実させようとするとき…
これほどまでに一人の人間として、年若い少女としての自由を実感するなんて、
思ってもみなかった。自分が、自分のためだけに、ここに存在しているという
ことを。

《本当の自分を見つけるのだ、もっと…もっと深く!思い出せ!!》

「どうかして、グリシーヌ?」
「いや…、なんでもない……」
  生けられた野菊の可憐な花弁が、視界の隅でちらつく。誰かの声が聞こえた
気がした。頭の中で…まるで血の奥深くから、沸き立つみたいに。
「それにしても、このわたくしが誰かの後ろで歌うことになるとは、思いも
よらなかった。しかも、あのような素人ふぜいのコーラスとはな…!」
「ふふ…あなどっていると、痛い思いをするかもしれないわよ。メルさんたち、
とても熱心に練習してらっしゃるもの。それに、織姫さんとレニさんが
指導して下さるなんて…今から胸がドキドキするわ…ぽっ」
「やれやれ、ずいぶんと買いかぶっているものだ」
  最後の一口を飲み干すと、ずいと茶碗を差し出し、おかわりを所望した。

                                           (02/02/01掲載)
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