=卒業文集(1996年3月)=
雑説
高校を卒業して十一年になるが、今でも母校の校訓を覚えている。
「最善を尽くして颯爽たれ」
また、初任校でもある前任校の校訓は、
「至誠・敬愛・自主」
である。
どちらの校訓も、私の人生における通過点として重要な意味があるように感じられるようになった。
高校生にとって、さらには成人になってからも、校訓のような難しい「理想」を理解して、それに向けて精進することは困難である。むしろ、普段の生活は、校訓どころではない「現実」があるのである。
さて、最近になって校訓の意味を感じるようになったのは、困ったときや苦しいとき、自分の気力や体力では解決できない限界が見えてきたからである。若いときは自分の力を過信し、「何もかもが自力でできるものだ」と考えがちである。しかし、最近は、自分の力だけでは何ともしがたいことが多くなった。そして、そんなとき、この校訓が力を貸してくれるのである。
時には「こんな人生ではダメだ もっと理想を高く」と諭し、時には「全力で頑張ったのだから仕方がない」と励ましてくれるのだ。単なる「理想」なのではなく、確かな「現実」として校訓が存在しているのだ。
さて、松丘高校の校訓は、
「協和・至誠・創造」
である。この校訓も言葉としては理想的な人間像である。問題は、それが現実化するかどうかである。
少なくとも今の私には無関係なものである。なぜなら、私にとって松丘高校がまだまだ未知の世界だからである。
一方、卒業する諸君にとっては、きっと校訓が輝いていることであろう。三年間の軌跡がそこに詰まっているのだから。もし、まだその輝きに気がつかないとしても、いつしか、はっとするに違いない。
卒業生の来校が多いことに驚き、ふと、そんな感じがした。