二 旅順要塞攻撃まで
五月三一日、第三軍司令官となった乃木希典中将は、広島(ママ)大本営で、軍の戦闘序列(部隊編成のこと)、作戦計画について訓令を受けた後、六月一日に、宇品を出航します。途中、連合艦隊司令長官東郷平八郎、第二軍司令官奥保鞏と協議した後、六月六日に帳家屯に上陸しました。乃木は、この日大将に昇進すると共に、大連東方北泡子崖に司令部を設置し、それまで、第二軍司令官が暫定的にとっていた第三軍の指揮を引継ぎます。(戦史・149) 六月二〇日には、全野戦軍を指揮する満洲軍総司令部が設置され、第三軍も、六月二三日に満州軍総司令部の指揮下に入ります。 翌六月二四日、東京にいる満洲軍総司令部は、第三軍に対し、速やかな旅順の攻略を訓令します。(機密・199) 訓令を受けた第三軍は、六月二五日、旅順への接近を阻むロシア軍の歪頭山、剣山陣地の攻略を、第一、第一一師団に命令し、六月二六日から、歪頭山、剣山攻撃が開始されます。第三軍の攻撃に対し、ロシア軍が反撃し、一旦占領した地域を奪回されたりするなど一進一退の様相をみせますが、七月四日になると、第三軍の攻撃に耐えかねたロシア軍は反撃を断念し、後方に撤退します。これにより、第三軍が旅順へ一歩近づきました。 七月六日、満洲軍総司令部は、一部の残留要員を残し東京を出発します(機密・200)。 そして、その五日後の七月一一日に、連合艦隊司令長官が海軍軍令部長へ旅順要塞早期攻略を要請する電報を送ってきたのでした。(新史・73) 翌七月一二日に、海軍軍令部長の要求に基づいて、陸海軍高級幕僚会議を開催(満州軍総司令部参謀井口少将陪席)され、旅順要塞の早期攻略が決定されます。(新史・73) ここで、初めて「旅順艦隊の撃滅」が旅順攻略の主目的として現れてきます。 陸海軍高級幕僚会議の結果を受けて、山縣参謀総長は直ちに航海中の満洲軍総司令官に対し、『第三軍は既に歩兵三十六大隊火砲二百七十餘門を有するを以て、第九師團及び砲兵第二旅團全部の到著を待たす攻撃を實行し得る望あり。刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望むは實に已むを得ざるべし』という電報を打っています(新史・74)。 〔「準備が出来ていなくてもいいから、無理をしてでも攻撃させろ」というわけですから、当時、大本営が、旅順要塞の防御力をかなり軽視していたことが分ります。 まだ航海中の七月一三日、長山島で、山縣参謀総長の通報に接した大山総司令官は、直ちに東郷連合艦隊司令長官と会見し、状況の把握に努めます。 〔無口で知られた東郷大将が、同郷の大先輩に何を語ったのかは分りませんが、その後の満洲軍の行動を見た限りでは、参謀総長が主張するほど切羽詰った状況ではないと判断したとみて間違いないでしょう。この辺の判断の相違は、補給の責任を持つ大本営と持たない満州軍の「制海権」に対する認識の差によるものだと思われます。〕 翌七月一四日、満洲軍総司令部は、大連に上陸し、第三軍司令官及び野戦鐵遺提理に対し、攻撃準備及び実施に関する計画の提出を命じました(新史・75) 七月一八日、大山満洲軍総司令官、児玉満洲軍総参謀長、伊地知第三軍参謀長が会談し、七月二五日から、旅順要塞の前進陣地への攻撃を開始し、三〇日までに旅順要塞を包囲する方針を決定します。(戦史・168) そして、同日、満洲軍は、第三軍の「七月二十五日より前進陣地の攻撃に移り、同三十日までに鳳凰山付近一帯までを占領し、その後方において鉄道の修復を行ない、八月十八日、砲兵援護陣地を占領、八月二十一日より旅順に対する砲撃を開始、八月末には要塞を攻略する」との計画を了承し、これを大本営に報告しています。(新史・75、戦史・211) 〔この満洲軍の決定は、大本営の「刻下の情況、第三軍に少しく無理押しを望むは實に已むを得ざるべし」という指示を明らかに無視するものです。しかし、総兵力の半分以下の戦力で、しかも、砲兵の十分な支援も得られない状況で攻撃をかけろという、大本営の指示は、制海権の確保に対する焦りから出たとしても無理な意見で、これを無視した満洲軍及び第三軍の判断の方が的確であったといえます。 七月二〇日夜明けに津軽海峡を通過したウラジオストック艦隊は、北海道沖で、高島丸(三一八トン)喜宝丸(一四〇トン)、第二北生丸(九一トン)の三隻を撃沈後、本州東岸を南下し、七月二二日には横浜沖でドイツ船アラビア号(二八六一二トン)を拿捕、七月二四日には伊豆半島の南岸でイギリス船ナイト=コマンダー号(四三〇六トン)を、静岡県御前崎沖で自在丸(一九九トン)福就丸(二二〇トン)を撃沈し、六月二五日には、野島崎灯台沖で、ドイツ船テア号(一六一三トン)を撃沈し、イギリス船カルカス号(六七四八トン)を拿捕しました。 日露陸戦新史によれば「當時敵のウラジウォストック艦隊は、七月二十一日津軽海峡を通過し、太平洋に出て所在に暴威を逞うしつゝ、七月二十四五日頃、伊豆沖を西に走り我が航運大に不安に襲はれたるも、我が艦隊はこれに力を割くの餘裕なく、この情況よりするも、旅順を速かに攻略し同地の敵艦隊を覆滅すること、愈々急なるを要するに至れり。よって参謀次長は、再び滿洲軍総参謀長に對し事情を具して、旅順攻略の焦眉の急なる旨を通報し、海軍軍令部長及び聯含艦隊司令長官は、別に滿洲軍総司令官に對し旅順の攻略を速かにせんことを切望せり。當時大本營に於ては、攻圍を迅速ならしむるため、要すれば攻城砲及び攻城材料の運搬は鐵道完成を待つことなく、人力及び馬力により之を強行せんとするの内意をさへ有しありしものの如し。」(新史・75) ウラジオストック艦隊が太平洋を暴れていた七月二三日、第三軍は、予定通り、旅順要塞の前進陣地攻撃に関する軍命令を下します。(「参謀本部編纂 日露戦争」では、攻撃命令の下令は七月二五日、戦史・170) 七月二六日、第三軍は、中央に位置する第九師団の正面を主攻撃目標として、攻撃を開始します。第三軍の旅順要塞への接近を阻もうとするロシア軍の抵抗は激しく、二六日、二七日と攻撃は停滞しましたが、二八日に至って、支えきれなくなったロシア軍は、ようやく鳳凰山〜大狐山の陣地へ後退しました。(新史・76) この戦いでは兵力一万八千(「日露陸戦新史」によればおよそ四万、新史・76)、砲七十、機関銃三十のロシア軍に対し、第三軍は兵力五万七千七百、軽砲一七八、重砲五二、機関銃四八、という大兵力を投入したにも関わらず、突破に三日も掛った上、日本軍の死傷はロシア軍(千三百九十五)の倍以上の二千八百三十六に達しました。(戦史・205) 七月二九日には、第三軍は、司令部を営城子に前進させ、旅順包囲命令を下し(戦史・195)、翌三〇日、第三軍は、「更に多大の犠牲を以て雙島灣東北岸より鳳凰山南方高地を経て郭家溝附近に亙る間を占領し、こゝに要塞の攻圍を完成せり。」(新史・76) ロシア軍は、第三軍の攻撃を威力偵察と誤認し、応戦が遅れ、十分な抵抗ができない内に、第三軍の接近を許したために、砲兵陣地を蹂躙され、後退を余儀なくされました。 このため、この攻撃は比較的容易に成功したのですが、それでも日本軍の損害は、死傷一千二百五十八に及んでいます。これは、戦闘に参加した人員の二・七%に達しています。(戦史・204〜205) かくして、旅順要塞の包囲を完了した第三軍は、同じ三〇日、旅順総攻撃準備を命令し、八月三日には、旅順包囲体制が完成します。(戦史・215〜216) 旅順要塞の包囲に至るまで、第三軍は、都合三回ロシア軍と戦い、死傷者総計四二九九名を出しています。更にこれに南山の戦いの死傷を加えれば、八六八六名となります。 〔要塞の前哨陣地を突破するだけで、これだけ夥しい損害が出たという事実は、第三軍司令部に、旅順要塞攻略のためには十分な準備が必要であることを更に確信させたと思われます。〕 この間、大本営は満洲軍を説得するをあきらめたのか、それとも説得しようとしていたが失敗したのか、その辺は記録にないため分りませんが、結局、大本営は、満洲軍を飛越え、直接、第三軍に指示を出します。 「井口参謀は國司大尉を従え七月三十日宇品を出航し、八月三日大連に着し、予て旅順攻略の一日も早さを要する山縣元帥の希望を伝えるため第三軍司令部に直行した。この一行に、参謀次長の意図を貫徹するため、派遣せられた大本営参謀鑄方中佐があった。」(機密・201) 〔当時の陸軍の指揮系統(命令の流れる順序)は、大本営→満洲総軍→第三軍となっています。 伊地知参謀長に面会した井口少将は「大本營の意圖を體して」「奇襲を以てする」「迅速なる攻略」求めましたが、第三軍は「七月十八日の計畫を保持して同意」しませんでした。(新史・85) 〔「奇襲」といえば、聞えはいいのですが、その実態は、砲兵による支援無しの白兵突撃に他なりません。後の旅順攻略戦の経緯を知らなくても、「南山の戦い」をはじめとするそれまでの戦いを考えれば、この大本営の要望を実行した場合に何が起るかは明らかであり、前述のように、前哨陣地を突破するだけで、四千名以上の死傷者を出してきた第三軍にしてみれば、準備不足の攻撃など論外でしょう。 この大本営の要求に無理があったことは、「第三軍に派遣」されていた「大本營幕僚」でさえ、「前進陣地攻略の経験」から旅順要塞の攻撃には「充分なる攻撃準傭を要する」と報告してことからも明らかです。 しかも、この参謀は「第三軍に於て策定せし攻城日課豫定は至當なる旨」も併せて「報告」しています。(新史・85) 〔これだと、大本営が「無能」の極みのようですが、そうではありません。旅順要塞の強度を軽視した点は確かに問題がありますが、旅順要塞の早期攻略を求めたこと自体は間違ってはいません。 この時期こはまだ、二〇三高地の話しは出てきません。単に旅順要塞への攻撃を、東からするのか、西からするのかという、攻撃方向を決めるだけの問題です。 要塞の「正面攻撃はむずかしい」というのは、全く正当な意見なのですが、第三軍は、西は「地形上、特に鉄道との関係上攻城砲の配置に多くの時日を要」する上、「適良なる重砲陣地」が少ない、更に「本防禦線」の手前に多くの「前進陣地」が存在するため、早期攻略に適さないから、東から攻撃すること決めたわけです。(機密・202) 〔大本営は「敵の城塞設備も能くは分らぬが、此方面は薄弱に相違ない」(機密・200)というまるで根拠のない理由で、西から「奇襲」すなわち、砲兵による支援無しの白兵突撃で攻撃しろと主張したわけですから、第三軍が「予定の計画を変更するは絶対に不同意」と主張したのは当然でしょう。(機密・203) 結果として、大本営と第三軍の対立は、「井口対伊地知両少将の旅順要塞攻撃意見は絶対に相違したために、談論逐次激越に陥り、遂には腕力沙汰にも及びかねまじき勢いであったという。」(機密・203)というレベルにまで至り、物別れになりました。 〔恐らく、こういった度重なる大本営の無理な要求と指揮系統を無視した行動のためこの頃から、満洲軍及び第三軍に、「大したことでもないのに大騒ぎする」「海軍の言いなりになっている」といった、大本営に対するある種の不信感が芽生えだしたことは、「【第三】軍は、大本営の見る所を以て悲観的杞憂とし」「【伊地知】参謀長が山縣総長の【旅順攻略の一日も早さを要するという】手書を一読過せし時の如き、こんなことがあるものかと云わん許りの冷笑を洩らせし」(機密・203)「【満洲軍】總司令部は、バルチック艦隊の東航に閲する大本營の處置を悲観的なりとし」(新史・88)という反応から見て取れます。〕 かくして、紆余曲折を経ながらも、旅順要塞に対する第一回の総攻撃は、第三軍が計画した「東北正面即ち二龍山、東鶏冠山両砲台間」を「強襲」するというものに決まったのでした。 |
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