11万発以上もの砲弾を撃ち込みながら、効果が殆どなかった理由は、
- 砲弾の半数以上の六万四千四百発が榴散弾という空中で爆発するタイプの砲弾であったこと
(榴散弾は、むき出しで地上にいる兵士に対しては極めて効果的な砲弾なのですが、塹壕などに隠れている兵士に対しては殆ど効果がありませんし、陣地の破壊には役立ちません、無論、要塞の破壊に全く役に立ちません。)
- 大砲のうち半数以上が、小口径で威力に乏しい七五ミリの軽砲であったこと
(この大砲(三一式野・山砲、日露戦争直前の一九〇三年二月にようやく全師団への配備が終った最新式)は破壊力不足で、要塞はおろか、堅固な野戦陣地でさえ、破壊できないものでした。なぜそんな非力な大砲を使っているのかといえば、非常に間抜けな話ですが、実際に戦争になるまで、この大砲では、堅固な野戦陣地が破壊できないということが分らなかったからです。)。
- 重砲の内、日露戦争直前にドイツから購入したクルップ製の一〇センチカノン砲四門、一二センチ榴弾砲二十八門、一五センチ榴弾砲十六門の計四八門以外は、全て日清戦争当時に使われた旧式砲で、旅順要塞のような近代式要塞には殆ど効果がなかったこと
(「坂の上の雲」で「青銅製の大砲」と書かれているのは、これらの旧式砲のことです。確かにこれらの砲は、青銅製ですが、作られたのは明治になってからであり、日清戦争はこれらの青銅製の大砲で戦われています。青銅にしたのは、当時、鋼鉄は国内では生産できず、輸入せざるを得なかったため、戦時の補充に問題ありとして、国内で調達できる青銅(銅は国内で豊富に算出する)を使用することにしたためです。)
上記のような、基礎的な戦力の整備は、陸軍省や参謀本部が責任を持つべき事項であり、これを乃木の責任にするのは不当と言わざるを得ません。(但し、一九〇〇年一〇月から参謀本部作戦部長に、その後一九〇二年五月から、一九〇六年二月まで、ほぼ一貫して野戦砲兵監の職にあった伊地知に関しては、その責任の一端があります。)
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