石原莞爾はかく語りき

−戦後の石原莞爾−



 一九四七年(昭和二二年)五月、山形県酒田市の酒田商工会議所で開かれた、極東国際軍事裁判酒田臨時法廷の冒頭において、以下のような会話があったとされている。
『裁判長は、石原に質問した。「訊問の前に何か言うことはないか」
 石原は答えた。「ある。不思議にたえないことがある。満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」』
 (石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」原書房 一九八八年 一八八頁)

 石原の「なぜ、自分を戦犯としないのか」のエピソードである。

 この酒田臨時法廷でのエピソードは、石原の伝記等によく出てており、よく知られている。
 例えば、歴史学者である秦郁彦教授もその著書「昭和史の謎を探る」の中で、『東亜の父 石原莞爾』(高木清寿 錦文書院 一九五四年)からの引用といういう形式で、このエピソードを取り上げている。

 我が身の危険を顧みず、潔く自らの責任を認め、勝者の矛盾を暴き、糾弾する石原のイメージは、多くの日本人の共感を呼び起こした。
 今日に至るまで、石原が偶像視される理由の多くは、この発言に起因するといっても間違いではないだろう。

 しかし、残念ながら、このエピソードは「伝説」であって事実ではない。石原が、裁判において上記の発言をしたことはない。

 突飛な主張に思えるかもしれない。しかし、資料を調べる限り、こう結論せざるを得ない。

 まず、この有名な発言は、朝日、読売、毎日といった当時の主要な新聞には、全く掲載されていない。

 また、上記の発言は、裁判記録にも一切残っていない。
 裁判記録の妙録が載っている「東京裁判」(朝日新聞法廷記者団 東京裁判刊行会)にはもちろんのこと、全裁判の速記録が載っている「極東国際軍事裁判速記録」(雄松堂書店)にも、東京大学社会学研究所に保管されている極東国際軍事裁判酒田臨時法廷の速記録にも、上記の発言は出てきていない。

 更に、初期の頃に書かれた石原関係の本にも、上記のエピソードは、全く出てこない。

 国立国会図書館で確認できる、最も古い石原関係の本は、一九五〇年(昭和二五年)に出版された「石原莞爾研究 第一集」(精華会中央事務所)である。
 これは、精華会中央事務所が、石原の一周忌に合わせて出版した非売品で、山口重次、宮崎正義といった石原の関係者が石原の思い出を語る内容であり、二五人もの人々が寄稿しているにも関わらず、この中にも上記のエピソードは、全く出てこない。

 古さにおいて、「石原莞爾研究 第一集」に次ぐのは、一九五二年(昭和二七年)に出版された、「悲劇の将軍 石原莞爾」(山口重次 世界社)と「石原莞爾」(榊山潤 湊書房)の二冊である
 このうち、山口の「悲劇の将軍 石原莞爾」には、酒田法廷の記述がある。しかし、そこにも上記のエピソードは、全く出てこない。

 一方、榊山の「石原莞爾」は小説であるため、本文は参考にならないが、最後に「後記と補遺」という形式で榊山が、この本を書いた経緯を述べている。
 そこで榊山は、「小説を、柳條溝事件から書き始める豫定」であったが、誰も「柳條溝事件が誰によつて起されたか」という「私の質問に應へて呉れなかつた」、石原自身「當時の政治的情勢と日本の立場をはつきり述べてみるが、事變のきっかけについてはひと言も觸れてゐない。」ため「私は豫定を変更せざるを得なくなった。」と書いている。(前掲「石原莞爾」二六六頁〜二六八頁)

 以上の資料から明らかなように、冒頭の石原のエピソードは、報道されず、公式記録に残っていないばかりではなく、その当時の人々、それも石原をよく知っている人々にさえ知られていなかった訳である。
 
 酒田法廷は公開であり、報道機関も傍聴人もいた。それにも関わらず、誰も石原の発言を聞いていないなどということは、あり得ない。
 従って、繰り返しになるが、残っている資料によるかぎり、石原の上記のエピソードは「伝説」であって、事実ではないと言わざるを得ない。

 


2へ続く

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