満州国独立へ



 一応南満州は関東軍の占領するとこるとなつたので、我々はかねての計画通り、溥儀引出しを開始することになつた。

 溥儀を引き出して満州の元首にすえることはそれほど前から確定していたことではない、我々は、事変前から薄儀に目をつけていて、旅順にいた旧臣羅振玉を通じてひそかに連絡を取つてはいた。独立政権の頭主として考えられた条件は、

 1 三千万民衆に景仰される名門の出身で徳望あること。
 2 家系上満州系であること。
 3 張作霖とも蒋介石とも合体出来ないこと。
 4 日本と協力し得ること、

 以上のような条件から当然溥儀が浮かび上つて来たのである。

 石原は最初は満州植民地主義と云うか占領論であつたところが板垣が来てから独立国家論に賛成するようになつた。その時は我々の間で約一カ月に亙て議論が行われた。

 石原が最初我々の独立国家論に異議を唱えたのは、支那人の歴史を見ると政治をやらせても腐敗するだけで、仕ようがない。それよりも清廉な日本人によつて一種の哲人政治を打つた方がいいと云うのであつたが、我々は、そう云つても民族感情が許さないだろうし、第一、日本人間に哲人の名に値する人が居ないだろう。人間には神性も悪魔性もある。現実の人間性を生かした政治をやるべきだ、と主張したが、石原はいつたん我々の意見に賛成すると、そののちは徹底した、独立・国家主義者となつた。

 当時満州に層た日本人の中には内地を食いつめた浪人などが多く、お義理にも満州人を指導するに足るとは云いかねた。

 只後に協和会の中心メンバーとなつた満鉄其他の青年の中には、志操高潔で邪心のない真の五族共和、王道楽土の実現を夢見る人々がいて初期の満州国は彼等が中心となつて活躍したので清新の気にみちていたが、その後権益主義務はびこり、内地の資本家や官僚がどんどん入つて来てから我々の理想はすつかり崩れてしまつた。

 我々は最初「満州に財閥入るべからず」という制札を立てた位であつたのだが一片の異動命令で建国時代の同志が去ると、後は利権にたかる蟻共がすつかりよつてたかつて食い荒してしまつたのである。

 さて、九月二十二日には羅振玉が軍司令部に呼ばれて溥儀引出を命ぜられた。彼は直ちに清朝復辟派の有力者であつた吉林省の熙洽を訪れ、次いで済南の張海鵬に会つて天津へ赴いた。しかし天津に旧臣とかくれ住んでい
た廃帝は関東軍の意図を計りかねたか、不安がつて仲々動かない。しかし、天津軍の三浦参謀から「宣統帝は、民衆と関東軍の支持と要望があれば、一身を犠牲にしても起つ覚悟があるが目下の状況では今直ちに立つということは考慮を要すると思う」旨連絡して来た。

 その内に工作の内容が少しずつ洩れて、中央から満州に新政権特に宣統帝を擁立する運動に参加してはならぬという命令が来た。

 このままではらちがあかないので、軍は次に、浪人上月某を派遣して天津の歩兵隊長酒井隆大佐と打合わせ溥儀をむりやり連行しようとしたが香椎天津軍司令官が、動かないのでどうにもならない。

 そこで更めて土肥原大佐が引き出しのため天津に派遣されることになつた。十月末天津に現われた土肥原は早速引き出し工作にとりかかつたが、彼の行動は逸早く支那側及び外務省出先に分つてしまつた。

 外務省では尚張学良を持つて来る考えもあり何れにしても南満にむりやり日本の傀儡政権を作るのは連盟に対してもまずいし、第一、今ごろ清朝の廃帝を引き出すのは、時代錯誤で、自然発生的政権の誕生を待ち望んでいたのである。土肥原はそこで予定通り天津に暴動を起してどさくさ紛れに皇帝を連れ出すことにしたが支那側もこれを探知して、暴動に参加する支那人を取り締つたので暴動は大したことにならなかつた。

 この騒ぎの中を溥儀は十一月十一日、天津を脱出して船で営口に渡つた。

 そしてしばらくほとぼりをさましていたが、若槻内閣が年末に倒れてからは、中央部もやつとあきらめて溥儀のかつざ出しに同意するに至り、翌年三月一日独立宣言と共に執政の名で満州国元首の座に坐ることになつたのである。こうして中央は一応関東軍の行動に反対しつつも結局はずるずると引きずられて信念のない失態を何度か露呈した。

 次の段階では山海関迄を手に入れる意図でもう一度天津に暴動を起して、それを理由に長城線迄出るつもりだつたが天津軍が乗つて来ないのでこれは失敗し、その上錦川占領のため出動した部隊は参謀総長の命令で、進撃途上遼河の線で行動中止を命令されてしまつた。 (錦州は結局翌年一月に占領した)

 一方北の方はハルビン進撃を禁止されたので方向を少し変えて、チチハル方面へ出て、一寸きざみに、停戦ラインを破つてどうとう十一月十九日にチチハルへ入城した。

 折角取つたチチハルであつたが又も参謀総長の命令で兵力を撤退させなくてはならぬ破目となつた。中央部が一番心配していたのはソ連の動向で北満に手を出すのは危くて見ておられないと云うことだつたらしく、とうとう二宮参謀次長が天皇から大権の一部委任を受けて臨時参謀本部委任命令などというのを持つて来て、圧えようとした位であつた。

 こうして我々は事変の進行のために計り知れぬ苦労を重ねたが、十二月に、犬養内閣が出来て荒木陸相となつてからはようやく、満州問題がスムームに運ぶようになつた。特に十月事件の陰謀か政界に洩れて、軍に反対すると命が危いという恐怖感のためもう軍の行動をチェックしようとする意欲を政治家も失つてしまつたようであつた。満州事変をあの時期に起したのはタイミングとしては非常に良かつたと思う。内地の無定見な連中を説得するのに苦労した他、国際的に事変の進行が邪魔された事はなかつた。 (文責編集部)


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