手綱を引つぱる中央部
私は爆破の報告を受けると直ちに旅順の軍司令部宛電報を打つた。石原中佐は全参謀を呼集して軍司令官の前で、作戦案を説明し軍司令官は直ちにこれを決裁した。 即ち軍司令部は、十九日早朝列車で奉天に向い、満鉄沿線に分散配置してある第二師団主力は吉林方面に備える在長春部隊を除いて速かに奉天に集中する。独立守備隊は夫々配置されている地で行動を起して鳳鳳城、安、東営口等を占領すること、又朝鮮軍司令官林銑十郎中将及び第二遣外艦隊司令官津田静枝少将に対し増援協力を要請した。ところが津田司令官は海軍部隊営口集中の要請に対して山東方面の情勢が不穏であるという理由でこれを拒否して来た。海軍はその後も満州事変の進行に対してとかく白眼視的態度を示したがその由来はここから始まる。 朝鮮軍の方は旨く行くかと思つたらこの方も思わぬ支障が出てきた。 十九日朝、林朝鮮軍司令官から「朝鮮軍司令官は奉天付近における関東軍の急に応じるため、独断旅団長の指揮した歩兵五大隊と飛行二中隊を奉天に派遣する」という電報が入り、神田の努力で林もとうとう踏み切つたかと喜んでいると更につづいて「派遣隊は十時頃から逐次衛戌地を出発させる」と云つて来た。ところが同じ時刻頃中央部では、満州の情勢は大したことはないと判断して「越境允裁を仰ぐつもりだからその前に独断越境してはならぬ」と命じ、更にそれを徹底させるため新義州の憲兵隊長に敵境する部隊があつたら差し止めるようにと電報した。これで越境計画はひと先ず潰れてしまつた。 その夜の夜中、朝鮮軍から「参謀総長は本職再三の意見を以て具申したにも拘らず、強いて増援隊の派遣を差止められた」という悲壮な電報を打つて来た。 我々の計画では二十日朝の朝鮮軍奉天到着を待つて関東軍主力を北上させハルビン迄出るつもりであつて、そのため軍を長春に集結させるよう手配していた時だけに痛憤やる方ないものがあつた。 そうしている中に神田から関東軍が吉林方面へ出るなら、朝鮮軍は奉天が手薄になるという理由でもう一度越境をやるということを云つて来た。二十一日朝、我々は、吉林の大迫機関を使つて爆弾を投げさせ、居留民保護の名目で第二師団を吉林へ進出させた。朝鮮軍は予定通り、嘉村旅団を独断越境させて奉天へ出て来た。 神田は更に間島方面へ出兵する口実を作るため龍井村へ出かけて、謀略をやつたが、これは成功しなかつたらしい。 以上のような次第で、神速果敢に全満を占領しようと考えていた我々の計画は中央部の妨害に出会つて仲々進行しなかつた。 放つておくと関東軍は何をするか分らないというので、先ず兵務課長の安藤大佐がやつて来て、東京では今回の事件が関東軍の陰謀だと云つている向きがあるがどうかと質問したが、つづいて月末には参謀本部第二部長橋本少将等がやつて来て、中央部のお目付として奉天に滞在して事ごとに口を出して我々の行動を制肘した。そして参謀本部からは我々を侮辱するような細かい指示をして来る。こんな指示は関東軍のような大組織に対してなすべきことではないのであるが。 吉林を占領した後我々は、ハルピンに何とかして出たいと思つた。出兵の機会を作るために甘粕元大尉をひそかに潜入させて、九月二十一日以来正金銀行支店等いくつかの建物に爆弾を投げさせた。効果は現れてハルピン総領事及び百武特務機関長から現地保護要請の電報が届いたので軍では再三、中央部に派兵を要求したがハルピンヘ出るとソ連が動くのではないかと危慎する中央部によつて拒否された。 参謀総長からは、 1 寛城子以北に兵を進める勿れ、 2 満鉄以外の鉄道を管理すること勿れ、 3 参謀総長の指示を持たずして新しい軍事行動をとる勿れ、というきびしい命令が届いたので一先ず断念する他なかつた。 ハルピン占領が出来たのは翌年一月で、この時には我々と上海の田中隆吉少佐の合作でやつた上海事変に火がついたのでそのどさくさにまぎれて簡単に作戦を終了した。 石原を中心とする我々の考え方は、北満に出てもソ連は動かないという判断と、国際連盟も列強も満州の事態に干渉する実力はないということであつた。当時アメリカ、イギリス、フランスの利害は極東では相互に対立していて、協同して日本を押える体制にはなかつたし、ソ連も第一次五カ年計画途上で、シベリア方面には手がまわりかねていた。ところが若槻内閣は連盟から日本が排撃を喰うことを恐れていたし、軍中央部もソ連の実力を遇大評価して、これ以上の行動に出るのを危険だと見た。 しかしここで止めては三年前と同じく中途半端になつてしまう。 こういう政府の弱腰を粉砕するためにやつたのが十月八日の錦川爆撃である。 この時は石原自らが小型機に搭乗して錦州の張学良軍兵営に小型爆弾を投下した。 実害は殆んどなかつたが、国際連盟に与えたショックは大きかつた。橋本一行は驚いて我々を詰問にやつて来たが、剣もほろろの挨拶に、彼等も憤激して帰国してしまつた。 この爆破で連盟の日本に対する態度は急に悪化した。我々の狙いは当つた訳だ。 統制に服しない関東軍に手を焼いた中央部は、十月中旬、侍従武官川岸少将を慰問に派遣して来た。我々は「よくやつた」という御嘉賞の言葉を頂くつもりでいた所、侍従武官の来る日の朝、陸軍大臣から「関東軍独立の噂があるがそういう企図は中止せよ」という電報が来た。これは夢想だにしなかつたことで我々はかんかんになつて怒つた。後で聞くと、同時に十月事件の首謀者達が捕らえられて、その際、誰かの流したデマか針小棒大に伝えられたのが原因らしい。 満州国独立へ |