九月十八日夜



 一方建川から電報を受け取つた私は、九月十六日午後奉天特務機関の二階に関係者全員を集めて対策を協議した。

 丁度本庄新軍司令官の初度巡視があり、この日板垣、石原も奉天に滞在していた。

 集つた着は板垣、石原、私、今田の他、実行部隊から川島、小野両大尉、小島、名倉両少佐等で奉天憲兵隊の三谷少佐は欠席した。

 決行するかどうかをめぐつて議論は沸騰し私は「建川がどんな命令を持つて来るか分らぬ。もし天皇の命令でも持つて来たら我々は逆臣になる。それでも決行する勇気があるか。ともかく建川に会つた上でどうするか決めようではないか」と主張したが、今田は「今度の計画はもうあちこちに洩れている。建川に会つたりして気勢を削がれぬ前に是非とも決行しよう」と息まいて激論果しなくとうとうジャンケンをやつて、一応私の意見に従うことになつた。

 ところが翌日になつて今田が私の所へやつて来て、 「どうしても建川が来る前にやろう」と云う。私は「東京と歯車を合わせてやつた方が得策だ」と説いたが何としても今田が云うことを聞かぬのでとうとう私も同意して「建川の方は僕が身を以つて説得しよう」と約束して十八日夜決行を決めた。それから先ず小島を呼び、川島、名倉を呼んで「十八日にしたぞ。お前達の大隊はどんどんやつて奉天城を一晩で取るんだ。川島は北大営を取りさえすればいい」と云い渡し、現場付近のゲリラ隊である和田勁等にも連絡して準備をととのえた。

 十八日建川を菊文に送り込んだ私は、浴衣に着かえた建川と酒を飲みながら、暗に彼の意向を探つた。酒好きの建川は、風貌からしても悠揚迫らざる豪傑である。にも拘らず、頭は緻密で勘が良い。私の云うことは大体覚つたようだがまさか今晩やるとは思わなかつたようだ。しかし止める気がないことは、どうやらはつきりした。

 いい加減の所でいい気嫌になつている建川を放り出して特務機関に帰つた。板垣も帰つている。石原は軍司令官に従つて前日旅順に帰り、今田は計画指導のため飛び出していて姿を見せない。十八日の夜は半円に近い月が高梁畑に沈んで暗かつたが全天は降るような星空であつた。

 島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向つた。北大堂の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した。時刻は十時過ぎ、轟然たる爆発音と共に、切断されたレールと枕木が飛散した。

 といつても張作霖爆殺の時のような大がかりなものではなかつた。今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか、満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ。そこで工兵に計算させて見ると直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても尚高速力の列車であると一時傾いて、すぐ又走り去つてしまうことが出来る。その安全な長さを調べて、使用爆薬量を定めた。

 爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く。地点より四キロ北方の文官屯に在つた川島中隊長は直ちに兵を率いて南下北大営に突撃を開始した。

 今田大尉は直接現場付近にあつて爆破作業を監督したが元々剣道の達人、突撃に当つて自ら日本刀を振りかざして兵営に斬り込んだ。片岡、奥戸、中野等、雄峯会の浪人連中もこれに協力した。。

 特務機関では、何も知らずに宴会から帰つて熟睡していた島本大隊長が急報であわててかけつけて来た所へ板垣が軍司令官代理で命令を下す。第二十九連隊と島本大隊は直ちに、兵を集合させて戦闘へ参加する。

 北大営では支那側は何も知らないで眠つている者が多かつた上、武器庫の鍵をもつた将校が外出していて武器がなくて右往左往している内に日本軍が突入して来る。かねてから内通していた支那兵も出て来るという調子。そこへ二十八サンチ重砲が轟音と共に砲撃を始めたので大部分の支那兵は敗走し、夜明迄には、奉天全市は我が手に帰し早速軍政が布かれて臨時市長に土肥原大佐が就任した。

   手綱を引つぱる中央部


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