計画の露顕



 我々は最初鉄道爆被を九月二十八日に行う予定であつた。爆音を合図に、奉天駐屯軍兵舎(歩兵第二十九連隊)内に据え付けた二十八糎要塞砲が北大営の支那軍兵舎を砲撃する。同時に在奉天部隊が夜襲をかけてこれを占領するというのである。一ところでこの要塞砲は元々ここにあつたものではない。この年の春永田軍事課長が満州視察に来た時我々は、
 「在満関東軍は総兵力一万にすぎないのに学良軍は素質良好とは云えないが約二十二万の兵力をようし、その上フランスから輸入したものを主として、三十機の飛行機さえ持つている。こちらは飛行機は一機もなく奉天には重砲一門さえない。これではいざという時に困るではないか」
 と云つて旅順要塞から分解運搬して据付けたものであつた。

 重砲がすえ付けられるというと神経を尖らせるので、井戸掘りをやつているという名目にして周囲を囲い、外からは何があるか分らないようにした。それで我大砲のあることは薄々知れたと見えて領事館などでは探りを入れていた。二十八サンチの巨砲と云つても性能はわるく据え付けても良くない上に操作する砲兵が居ない。

 それでも北大営からの直距離を計つて始めから照準を合わせておいた。これなら眼をつぶつていても命中する。問題は威嚇にあつて実際効果は大して期待してはいなかつたのである。

 この重砲の据え付けは九月十日過ぎには完了したが、尚臨時の砲兵に操作を教えたり弾薬を集積したりするのに手間がかかる。そして高梁が刈取られた後が作戦に好適である(高梁が繁茂していると、匪賊がかくれても発見しがたい)という見地から九月二十八日が選定されたのであつた。

 それが十八日にくり上つたのは以下に途べる事情からである。

 九月十五日、かねてから連絡打ち合わせをしていた橋本中佐から「計画か露顕して建川が派遣されることになつたから迷惑をかけないように出来るだけ早くやれ。建川が着いても使命を聞かない内に間に合わせよ」という電報が特務機関に舞い込んで来た。

 後から聞くとこれはこういう事情であつた。

 我々が満州で色々画策していることは現地外交出先に薄々感付かれていたらしく噂は海を越えて内地にも伝わつた。

 金で買収した浪人達が酒を飲んで大言壮語したり、弾薬や物資の集中をやつていたことそれに私も酒の勢いで、多少大きなことを云つたりしたのが原因がと思うが、ともかくそういう情報が、幣原外相の耳に入つて閣議の席に持ち出された。陸軍大臣は南次郎だが、この人は東洋大人的な茫洋とした人物で、幣原が色々つついても不得要領な返事しかしない。「軍が勝手にそんなことをする筈はないと思う」と突つぱつたが、幣原から林奉天総領事の打つた電報を見せられて少しあわて「とにかく事実かどうか調査してみる」と答えて帰つて来ると建川第一部長を呼んだ。

 南から聞かれた建川は「そういうことを計画しているという噂もないではありません」と答えた。すると南は「それは困る、お前行つて止めるように云つてくれ」と云うので建川自身が奉天へ止め男として出かけることになつた。建川は困つたことになつたと思つて橋本と根本を呼んでそのことを告げた。そこで建川の暗示で、早速前のような電報を関東軍に打つた訳である。この時は橋本等中央の同志は青くなつてあわてたらしい。当時土肥原奉天特務機関長は東京から帰任の途中で、十八日に京城で神田中佐と会つて奉天へ向つていた。

 建川は十五日夜東京を出発して途中ゆつくりと列車、連絡船を利用して密行で満州へ向い十八日午後本溪湖駅迄迎えて出た板垣大佐と共に、奉天駅に降り立ち私は駅からすぐ車で建川を奉天柳町の料亭菊文に送り込んだ。

    九月十八日夜


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