現地の同志たち
さて現地の計画の方はどういう風に進行して行つたか。本庄新軍司令官が着任したのは、〔昭和〕六年八月であつた。新軍司令官といつても本庄氏は支那関係子の大先輩で重厚な性格の人格者で、将器の名にふさわしい人であつた。 この大事な時期の軍司令官としては適任であり、中央の人事当局もその点はよく考慮したのであろう。 我々は細かいことは本庄さんには何も云わなかつたが、平常から観察した所では、いざという時には頼もしい存在となるに違いないと判断していた。 三宅参謀長以下幕僚の大部分には計画を明かさなかつた。爆破工作の担当は、四月に張学良軍事顧間(柴山兼四郎少佐)の補佐官として着任した今田新太郎大尉に割振られた。今田大尉は、漢学者を父に持つ剣道の達人で純情一徹正義感に燃えた熱血漢であつた。 必要以上の人物に秘密を洩らすのは危険であるから同志の選定には苦心した。 爆破工作は素人にやらせると、どうしても露見し易いことから軍人を使うのが最も良いが爆破後直ちに、兵を集めて行動を開始する以上在奉天部隊の中堅幹部にはどうしても秘密を洩らさねばならぬ、そこで一人一人酒を飲ませて云いたいことを云わせ,、これならと思つた人物には計画を明かして同志を固めて行つた。 即ち、川島大尉、小野大尉(何れも在奉天独立守備隊島本大隊の中隊長)小島少佐(在奉天第二十九連隊付)名倉少佐(同大隊長)三谷少佐(奉天憲兵隊)等で、補助作業には甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉等が参加した。 島本大隊長には何も明かさなかつたので事件当夜は全くの寝耳に水でおどろいたらしい。 一方事件発生と共に、満鉄沿線各地で、爆弾を投げたりして、治安不良の廉により、領事から救援要請を乞わせそれを理由としてどんどん出兵するために甘粕正彦等が、潜行することになつた。九月十八日直後ハルビンや吉林で起つたこの種の事件は予め組立てられたものであつた。 また現場付近の警戒や連絡に喰いつめた浪人や青年を使うことにして、和田勁がこれを統率することになつた。 資金は内地から、河本大作の手を通じて届いたので当面不自由はしなかつた。 計画の露顕 |