計画に加わつた人々
昭和六年春頃には柳条溝事件のおよその計画が出来上つていた。きつかけを作るのは易しいことであるが、その後の処置が問題である。張作霖爆死事件の時の教訓を生かして計画は綿密に樹てられた。考えてみるとあの頃は未だ機が熟していなかつた。張作霖一人を殺しただけでその後に来るべき行動が何もなかつた。中央部との連絡が全くないし、隣接朝鮮軍との何の打合せもなかつた。国民の満州に対する関心も薄くて、すべて足並がそろわなかつたのである、その上、浪人を使つたり支那人の浮浪者を使つたりして、結局日本軍がやつた陰謀だということが露見してしまつた。今度は二度と同じ誤ちを冒してはならない。事件が起つたら電光石火軍隊を出動させて一夜で奉天を占領し、列国の干渉が入らない内に迅速に予定地域を占領せねばならない。その時政府や出先外交官からじやまされることを考えなければならないがそこをぐずぐずしていると結局何も出来なくなつてしまうだろう。従つて時には中央の命令を事実上無視しても強行する必要があるし、関東軍の行動を支援するため、中央部の中堅将校を同志に引き入れて、内部から、助力してもらい又橋本一派の国内クーデターが同時にあれば益々好都合である。更に隣接朝鮮軍からは適宜増援してもらわなくてはならない。 幸い、同軍参謀の神田正種中佐が、満蒙問題には経験も深く我々の計画に同意してくれたのでいざという時には朝鮮軍の援助を得る見通しが立つた。石原からの要望で神田中佐は事件迄に三度位旅順を訪れて来た。彼は元来ロシア班出身でハルピン特務機関にも居たことがありソ連通の硬骨漢であつたが、朝鮮軍に来て、朝鮮の事態が想像していたよりはるかに悪いことを知つて驚いていた。鮮人の排日気分は子供に迄徹底していて、田舎の方へ行くと日本人一人の旅行でも危険だという、これも満州の排日が伝染したためであり、満州事変は朝鮮軍の立場から云つても必要だというのであつた。 最初計画を持ち出した時は朝鮮軍司令官は南中将で神田は南ではちよつと独断越境などむりだといつて難色を示したが、林(銑十郎)中将が来てから意見を叩いてみると、話が良く分る。これなら大丈夫だと云つて来た。 一方中央部では、当時第二部長から第一部長に変つた建川(美次)少将が、張作霖事件以来の経緯もあつて一番信頼がおける。二宮参謀次長となると元々抜け目のない人間だから少し危険だ。無条件で信頼出来る人は支那課長重藤千秋大佐、支那班長根本博中佐、ロシア班長橋本欧五郎中佐の三人で、永田鉄山軍事課長も一応信頼出来た。彼等に対してどの程度計画を明かしたか数字で示せば橋本、根本が九十五パーセント、建川、重藤が九十パーセント、永田が八十五パーセント、小磯、二宮が五十パーセントという所であろうか。 六月頃私は彼等と大体の打ち合わせをするため内地に帰つた。橋本、根本に会つて相談したが、二人と奴国内改造に熱心であつたので満州事変を起したら、そのはずみで改造も出来易くなるだろうという点では意見一致したが、橋本はクーデター第一主義でクーデターを先にやりたいと云つていたが結局十月頃同時にやろうということになつた。細かい爆破計画などは彼等の方も特に聞かなかつた。 八月、師団長会議があつて、南陸相が満蒙問題について積極的意見を述べて問題になつたが、この時関東・朝鮮・台湾各軍司令官も出席したので新任、本庄(繁)軍司令官に板垣大佐が付いて上京した。林朝鮮軍司令官には神田が付いて行つた。 この頃興安嶺方面の地誌調査に来ていた中村震太郎大尉が殺害される事件が起りつずいて万宝山事件があり、満州の空気はますます険悪になつた。計画実行の時はいよいよ近付く。八月下旬私は満州の実状を中央部に認識させる任務をもらつて上京した、私は中村大尉事件について、奉天特務機関補佐官として張学長側官憲と交渉を重ねていたが、問題はこじれるばかりである。そこで、実力発動をこの機を利用してやるとして中央部はどういつ意見を持つているか、もう一度確めてみたいと思つた。 二宮、小磯、建川、永田以下と意見を交し、二宮、建川には特に、 「このままでは近い内日支両軍は衝突するようになるから、その時の対策を考えておいてくれ、しかし、衝突したら当面の処理は関東軍に任せて欲しい。関東軍としても国際情勢を慎重に考慮して行動するつもりだから細かいことまで干渉しないでくれ」という風に切り出して、作戦発動の場合、南満だけに局面を限定するか、作戦時期、兵力量の見込、外交々渉に移る時期、北京に在る張学良処理について話し合つた。二人とも私の云うアトモスフェアで言外の意味を覚つてくれたか、政府に対して、どの位出られるか分らないが出来るだけ貴軍の主張貫徹に努力しよう」と約束してくれた。 それから橋本、根本に会つて「準備は完了したから、予定通り決行する」と云うと、根本は「今だと計画が実現出来る程、国内の支援があるかどうか不安である。特に若槻内閣ではやりにくいから内閣が倒れる迄待つてみないか。急いでも本庄さんに腹を切らせるだけだ」と延期をすすめたが、私は「もう今となつては待てない、矢は弦〔ツル〕を放れているんだ」と云つて満州に帰つた。 現地の同志たち |