「石原莞爾」榊山潤
後記と補遺 私はこの小説を、柳條溝事件から書き始める豫定でゐた。しかし、柳條溝事件が誰によって起されたか、その邊のはっきりしたことをついに突止めることが出來なかつた。張作霖の爆死の眞相は、今日では誰でも知つてゐる。あれは日本の一將校がやつたことだ。柳條溝も同じ手であらうと思ふのは、今日一般の常識であらう。當然それを知ってゐなければならぬ筈の舊軍人で、他のことは實によく話してくれたのに、それだけは私の質問に應へて呉れたかつた。今更何を隠す必要があらうと私は考へるのだが、どういふものか、事それに關する限り誰も一様に漠たる表情になつて口を噤む。 昭和二十年十一月に出てゐる東亜聯盟同志會會報に、「豫は戦爭犯罪者なり」といふ文章が載つてゐる。「石原顧問滿洲亊變の實相を語る」と傍題がついてゐて、重慶中央通信社宋徳和の質問に應へたものである。質問は、
右について、石原莞爾は次のやうに應へてゐる。 「滿洲事変勃發當時、作戦面を受持つ關東軍参謀で、滿洲の濁立を主張した一人である。その理由は軍人的見地より東亜防衛の根據地としての滿洲、日本はソ聯の南下に極めて重大な關心を有するも、當時の滿洲實力者の防衛力は極めて手薄であつた。他の一は、主として政治的原因による。常時日支の間に連續的紛争が絶えず、中國本部では屡々日本との政治的經濟的親善が反對された。ところが滿洲はその歴史的闘係に於ても日本と非常に密接である。從って滿洲を中國より離すことは日支の紛爭をすくなくし、更に日支提携を促進すると共に、對ソ防衛の基礎を固めることが出來ると考へた爲めだ」このやうに當時の政治的情勢と日本の立場をはつきり述べてみるが、事變のきっかけについてはひと言も觸れてゐない。 山口重次氏から頂いた手紙にも、 「獨断獨力滿洲事變を専行し、世論に反對の餘裕を興へず獨立國家を建設した推進力となった」のは石原將軍で、 「柳條溝事件は板垣將軍の陰謀ではなく、寡兵をもって敵中深く、敵の中樞を一撃に潰滅するといふ奇襲作戦が、昭和四年の爆死事件失敗以來、周到に研究準傭された作戦計畫の敢行であった」とそれには觸れてゐない。私は豫定を変更せざるを得なくなった。 |