石原莞爾尋問調書 1946年5月4日
| 1946年5月3日 1400〜1630 東京逓信病院(東京市 麹町区 富士見町) 尋問 D・A・プロバンス海兵隊大尉 通訳 ジョン・A・カーチス陸軍少尉 証人 石原莞爾 以下は、石原が提供した情報の要約である。付録A、付録Bは石原が書いた東亜連盟と日満財政経済調査会についての説明文の翻訳と原本である。 石原は、1928年10月、関東軍の作戦課長に任命された。石原は1932年8月、日本に帰り参謀本部のメンバーになるまでその地位にいた。 1932年の10月か11月、石原はジュネーブの国際連盟における松岡洋右の軍事顧問に任命された。 石原は、国際連盟に対する満州独立の説明に関して松岡と衝突した。松岡は満州問題を充分に熟知しており、石原の助けを殆ど必要としなかったことがその理由であった。 1933年の春、石原は日本に帰国し、休暇の後、1933年の八月に仙台にある歩兵第四連隊長に就任した。 1935年8月、石原は参謀本部作戦課長になった。 1937年3月には少将に昇進し、作戦部長に就任した。 1937年9月関東軍の参謀副長へと転出した。この地位では、石原は、参謀長であった東条英機(とうじょう・ひでき)の指揮下にあった。 1938年8月、石原は再び日本へ帰り、12月に、舞鶴要塞の司令官になった。石原は、1939年8月、京都の第16師団長になるまで、この地位にあった。 1941年3月、石原は、中将で退役し、その後現役に復帰していない。退役後、石原は山形県鶴岡市高畠町に自分の農場に住んだ。 石原は逓信病院を退院する際、山形県飽海郡高瀬村に住まいを確保することを望んでいる。 退役後の石原の唯一の公的地位は、東亜連盟の顧問であった。石原は、1946年4月26日のインタビューを受けた際、東亜連盟の組織と活動に関する説明文を提供している。この文献の翻訳を付録Aとして添付している。 石原は、更に、東亜連盟は1933年3月、満州で活動を開始し、1939年秋に東京に移ったと主張した。 石原は、東亜連盟の政策に共感したが、1941年になるまで東亜連盟とは公式な関係は無かったと主張した。 東亜連盟は満州の平和を達成するするため、満州国共和会(満州に住んでいる中国人、日本人、朝鮮人によって作られていた)の思想によって作られた。 関東軍は東亜連盟と何の関係もなかったが、蘆溝橋事件の後、関東軍は東亜連盟に反対し始めた。これは、東亜連盟が戦火の中国への拡大に反対したためであった。 1946年4月26日のインタビューにおいて、石原は、自分と日満財政経済研究会との関係に関する短い説明文を提供した。この説明文の翻訳を付録Bとして添付している。 石原が満州の産業の発展のため、日満財政経済研究会に求めた計画は、もし中国が平和であれば、有効に働いただろう。 石原は、日支事変の拡大に反対したことが、1937年の9月に参謀本部から関東軍へと転出させられた理由の一つだと信じていると述べた。 石原莞爾は続けた。 石原は、満州と満州事変に関する自分の考えと行動について以下のような説明を行った。石原は、1926年以前、まだ日本で陸軍大学にいた頃から、必要ならば、満州を武力で奪い取り、日本の領土とするという考えを支持していた。 満州における中国人と日本軍の間に緊張が高まっていった。両方とも最大限に武装し、小さな事件が起こっていた。 この時期、石原は、日本は、何か事件を起こして、それに乗じて一気に満州全体を奪うべきであると信じていた。 石原は、自分の見方は日本人にも中国人にもよく知られていたが、関東軍の首脳部は彼の見解に同意しなかったと述べた。 満州事変の勃発の際、石原は、日本のために満州全土を奪取しようと思ったが、陸軍は、中国軍を鉄道から追い払うことにのみ興味を持った。 事変後数週間、石原の見解は、満州は、満州に住む人々が運営する独立国家にしなければならず、うんざりさせられた(判読困難)時代は終わり、日本人を含む他の全ての国の人々は立退くだろう、と思うように変わった。 石原は、やっと板垣征四郎をこのように考えさせるようにした。板垣は1932年1月に満州国設立の交渉を開始した。これらの交渉が、1932年3月1日の満州帝国(建国)宣言となった。 石原は、自分や板垣が満州事変を計画したということが、日本人の一般的な意見であると共に、そのことを示唆した文章が非常に多く書かれていることをよく知っていた。 石原は、南満州鉄道の線路の爆破を計画したり、計画に参加したことを否定した。 石原は、板垣と自分が、本庄司令官の命令に反して、攻撃命令を出したという意見もまたあると主張した。 石原は、本庄司令官はその場におり、線路の爆破の報告を受けてから、5分足らずで、攻撃命令を下したと主張した。 石原は、本庄司令官はあやつり人形ではなく、自分が起こしたことに対する明確な見通しを持っていたと主張した。 このことは、自殺に失敗した東条と異なり、本庄司令官が、切腹により、自らの責任をとって死んでいるということから明らかである。(と主張した) 石原は、満州事変は自分が計画し実行したという一般の意見を変えようと試みたことはなかった。 石原は、自分と他の関東軍のリーダーは満州での彼らの働きによって、爵位を授与されたが、石原は、自分が貰ってしかるべき以上の名誉を与えられたが故に、そのことを恥じていると主張した。 石原は、再び、満州国を設立するという自分の計画がかくも無惨に失敗したことによって発生した、今回の戦争に対して、非常な責任を感じていると主張した。 満州国を設立しようとする彼らの試みは、日本の国際連盟からの脱退の原因となり、条約違反となり、最終的に第2次世界大戦へと導いた。 粟谷憲太郎・吉田裕 編集解説「国際検察局(IPS)尋問調書 31巻」日本図書センター (P54〜P75) |