石原莞爾尋問調書 1946年4月26日
| 1946年4月26日 0900〜1130 東京逓信病院(東京市 麹町区 富士見町) 尋問 D・A・プロバンス海兵隊大尉 通訳 ジョン・A・カーチス陸軍少尉 証人 石原莞爾 石原莞爾は以下の要約に示された事項に関して尋問された。 芳沢謙吉(よしざわ・けんきち)は1932年1月14日から1932年5月5日まで犬養内閣の外務大臣であった。芳沢は、1932年の二月に石原を呼び、満州帝国の設立を延期できないかを尋ねた。石原は「今となっては不可能である。全ての準備は既に終わっている。」と答えた。 石原に(当時)どのような計画が作られていたのか、また、なぜ、満州国の承認が延期できなかったのかその理由を確認した。 以下は、石原が提供した情報の要約である。 石原は1928年の10月に関東軍参謀に任命され、1932年の10月か11月に松岡洋右(まつおか・ようすけ)の軍事顧問としてジュネーブに赴くまでそこに留まった。ジュネーブでの石原の義務は、国際連盟で、満州事変の状況を説明する松岡を支援することであった。 しかし、松岡は、満州事変に完全に通じており、石原の助けを殆ど求めなかった。1943年(1933年の誤植)2月、石原は日本に帰り、仙台の歩兵第四連隊に加わった。 石原は芳沢謙吉を知っており、1932年、芳沢が関東軍司令官である本庄繁将軍(ほんじょう・しげる)と会うため、奉天に滞在したときに会ったことがあると述べた。 芳沢はジュネーブから日本へ戻る途中であり、満州事変と満州の状況の詳細を熱心に調べた。 石原は、芳沢と個人的に会ったり、芳沢から呼び出されたことは思い出せなかったが、芳沢が、国際連盟のメンバーと外交交渉を続けることを望み、満州政府の設立の延期を強く望んでいる旨を主張したことはハッキリと覚えていた。 石原は、芳沢は全ての準備が完了しているため、新満州国政府の設立は延期出来ないことを知らされたと思ったと主張した。 石原は、新たに単独の帝国として、満州国を設立することに関する討論は1932年の1月始めに始まり、2月の始めまでに、満州国を独立国として新たに設立するという合意に達したと述べた。 この合意は日本人と溥儀(へんりー・ゆう・い)との間でなされ、独立の日付は、1932年3月1日に決定された。これまでの討論と、この合意を考慮して、芳沢は、満州帝国の設立の延期は不可能だと知らされた。(と石原は述べた。) 石原によれば、日本人の討論の中で活発だったのは、関東軍の参謀の一人である板垣征四郎大佐(いたがき・せいしろう 関東軍高級参謀)と、本庄将軍の民間人の顧問である駒井徳三(こまい・とくぞう)であった。 駒井は公式には南満州鉄道と関係があり、コイソ将軍(小磯国昭 こいそ・くにあき 陸軍省軍務局長 のことか?)の親友の一人であった。 駒井は1931年の10月、満州問題のアドバイザーとしての役割を果たすため、コイソ将軍によって、本庄将軍の下へ送られた。 石原は、こういった討論には、関東軍参謀としてしての義務から出席したのであって、自らの意志で加わった訳ではないと主張した。 石原は、満州の情勢を取り扱うべき方法に関する彼の信念を説明した。 石原は、1928年以前、日本に住んでいた当時は、満州を、朝鮮と類似した傀儡国家として新しく設立し、日本人がそれを管理すべきだという意見であった。これは、日本で最も一般的な意見であった。 満州事変の直後、関東軍の参謀達の間で、満州をどうすべきかについて、激しい議論が闘わされた。 満州に住んでいた3年間で、石原は自分の意見を変えていた。 石原は、今では、満州を、満州に住む人々が自ら統治する、中国や日本からの干渉のない、単独の国家として、新たに設立することこそが、中国における恒久平和を達成する唯一の方法であると思っていた。 石原は、ソ連との国境の警備のため、日本軍の小規模な分遣隊が満州に駐留することが必要になるだろうと考えた。 1931年の遅くまでに、石原は、板垣征四郎に、これこそが満州の問題を解決する唯一の方法であると納得させた、そして、1932年1月に、この方向に沿った協議が始まり、とうとう、1932年3月1日に、新満州帝国の設立という結果になった。 石原は、今日の世界情勢に責任を感じていると主張した。 石原は、満州独立の強力な支援者であり、親友である板垣に満州の独立こそが正しい解決であると納得させた。 単独の帝国としての満州国の設立は、日本の国際連盟からの脱退という結果になり、最後には、日本を今回の戦争へと導いた。 石原は、今でも、単独の国家として、満州国を設立したことは正しかったし、東洋をより安定させる第一歩であったと思っていると述べた。 粟谷憲太郎・吉田裕 編集解説「国際検察局(IPS)尋問調書 31巻」日本図書センター (P54〜P75) 注意事項 |