小林よしのりは、日本は八紘一宇を本気で主張していたとして、その証拠に、外交官・杉原千畝氏がナチス・ドイツの迫害政策によって海外脱出をはかるユダヤ難民たちに日本の通過ビザを発給したことを挙げています。

 ちなみに八紘一宇とは

  • 大東亜共栄圏の建設、ひいては世界万国を日本天皇の御稜威の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想
  • (「日本大百科全書」小学館))

 のことをいいます

 さて、事実はどうだったのでしょうか。

 杉原千畝氏自身は、その手記「決断(外交官秘話)」で次のように語っています。

  • 本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。

  • (渡辺勝正編著「決断・命のビザ」大正出版 P288)


 お読みになれば、お分かりになると思いますが、杉原千畝氏自身は、博愛人道の精神から、ビザ発給を禁ずる本省訓令を無視してビザ発給を決行したとはっきりと書いています。

 杉原千畝氏の語る「命のビザ」発給の実態と、小林よしのりの説明は百八十度異なっています。
 どちらが正しいか、などと考えるまでもないでしょう。本人の話が正しいに決まっています。

 小林よしのりが言及している、産経新聞の1998年3月30日の報道は、使われた資料名を間違えるくらい問題の多いもので、内容的には単なる「誤報」に過ぎません。
(産経新聞が報道している「猶太(ユダヤ)民族問題十三巻」あるいは「民族問題雑件猶太(ユダヤ)人の部」などという資料はいずれも存在しません。実際にあるのは民族問題関係雑件 猶太人ノ部です)

 それとも、小林よしのりは、産経の報道のほうが絶対正しく、杉原氏の証言は「反日」だから、信頼できないとでもいうのでしょうか。

 杉原氏のいわゆる「命のビザ」発給の逸話については、いまさら説明することもありませんが、もう少しみてみることにします。

 当時、リトアニア日本領事館領事代理であった杉原千畝氏は、リトアニアの首都カウナスにある日本総領事館の前に集まったユダヤ難民を救うべく、日本政府に対し、ユダヤ難民に対する通過ビザ発給の許可を求めました。
 これに対し、八紘一宇を国是とし「ユダヤ人差別はしない」筈の帝國政府は、なんと答えたのでしょうか?

 答えは「ビザ発給禁止」でした。
 しかし、杉原千畝氏は、めげることなく、再度、通過ビザ発給の許可を求めました。

  • 最初の、即ち、第一回め私発本省宛電報の骨子は、上述の通りであったのですが、今一度繰りかえせば以下の通りでした。
    一、人道上、どうしても拒否出来ない。
    二、発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが掲示するもののうち、領事が最適当のものと認めたものであればそれでよい。
     三、トランジットの性質を失わないため、ソ連横断の日数を二〇日、日本海在三〇日、計五〇日と推測し、この五〇日の間には何が何でも、第三国行きのビーザも間に合うだろうという趣旨を織り込んだ請訓電を打ったが、やはり第一回回訓の通り拒否してきました。
    拒否の返電第二号では、大集団の入国には公安上、内務当局を初め旅客安全取扱上からも、敦賀、ウラジオストック間連絡船会社側も反対しているからといって、トランジット・ビーザといえども発給相成らぬ……と解答してきた。

  • (渡辺勝正編著 「決断・命のビザ」大正出版 P300)


 「八紘一宇」を本気で主張し、ドイツの要求をはねつけていた筈の日本政府は、行き場のないユダヤ難民への通過ビザの発行を二度に渡って禁止しています。つまり、政府はユダヤ難民を助けるなと命令してきたのです。
 このとき、日独伊三国同盟の締結交渉が詰めの段階であった日本は、ユダヤ難民を救済することで、ドイツを刺激することを避けたとしか考えられません。ドイツの要求をはねつけるどころか、自らドイツに迎合したわけです。

 公人として、すなわち外務省の官僚として上司の命令に従って行動すべきか、個人として、すなわち一人の人間として自己の良心に従って行動すべきか、悩んだあげく、杉原千畝氏は自らの良心に従い、日本政府からの訓令や通達に違反して、通過ビザを発給したのです。

 繰り返しになりますが、ユダヤ人を救ったのは、杉原千畝という一人の人間の個人的な決断でした。「命のビザ」の発給に関し、日本政府は、何の手助けもしていません、ただ妨害しただけです。

 付記
 小林よしのりは「当時の電文にも外務省が杉原に反対した形跡はない。」と書いていますが、実際には、外務省は、8月16日9月3日の二回に渡って、ビザの発給を中止するように命じています。

 しかも外務省は、これから7年もたった戦後の1947年6月13日にいきなり杉原千畝氏にクビを宣告したのです。
 

  • 日本に帰って三カ月ほどした時、外務省から手紙で出省するようにという知らせがありました。その日、帰ってきた夫の顔が暗く沈んでいるように見えました。
    「何かあったのですか?」
     よくないことがあったのではないかという予感がして、すぐに聞きました。
    「ああ、外務次官の岡崎さんの部屋に呼ばれて、〈君のポストはもうないのです、退職して戴きたい〉と言われた」
     夫はポツリと言うと、黙り込んでしまいました。私は言葉を継ぐこともできません。ただ夫の顔を見つめているだけでした。かなり後になって、岡崎次官に「例の件によって責任を問われている。省としてもかばい切れないのです」と言われたことを聞きました。

  • 杉原幸子「六千人の命のビザ」大正出版 P149〜150


 杉原氏はこのときまだ47歳の働き盛りでした。



 付記
 杉原氏は、外務省の人員削減の一環で免職になったのであって、訓令違反のために免職になったわけではないと主張する方もいますが、これでは杉原氏が辞職した理由が判らなくなります。
 なぜなら、人員削減が理由の免職であれば、退職金が全額支払われるのに、辞職した場合は、退職金は削減され、不利になるからです。
 従って、これは、杉原氏が言うように、訓令違反による免職を言い渡されたと見て間違いないでしょう。訓令違反は懲戒免職の対象となり、懲戒免職の場合は、退職金は出ませんから、杉原氏が辞職した理由が明確になります。

 注:「付記」は「太平洋戦争の基礎知識4」には含まれていません。


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