アメリカが、国防計画である「カラープラン」を策定したのは、まだ日露戦争中の一九〇四年のことでした。 「オレンジ計画」は、このカラープランの一部であり、カラープランと呼ばれたのは、仮想敵国を、ドイツは黒、イギリスを赤、メキシコを緑、日本を橙というように「色」で表しているためです。 しかし、「カラープラン」には、仮想敵国としてドイツ、イギリスが含まれていることからも明らかなように、日本だけを想定したものではありませんでした。 一方、日本が、アメリカを仮想敵国とした「帝国国防方針」を決定したのは、日露戦争(1904〜1905年)後まもなくの1907年のことでした。 制定時点ですでにアメリカは、ロシア、フランスと共に「主なる仮想敵国」とされています。 (「戦史叢書 比島攻略戦」) 「排日移民法」という名前の法律はありません。 1924年の「移民法」(通称ジョンソン‐リード法)の第13条C項が、合衆国の市民となる資格を有しない外国人の入国を禁止する内容であり、形式的には日本をターゲットとはしていません。 但し、この移民法が明確な人種差別主義に基づいており、日本人移民の締め出しを目的としたものであることは事実です。 「日本はあと半年で一滴の石油もなくなる」というのは間違いです。 1941年12月に企画院が作成した「日本の国力の推移判断」によれば、石油の備蓄は1941年10月1日時点で、9,050,000キロリットル、一方、年間の消費量の予測は、5,500,000キロリットルでしたから、単純計算で1年8ヶ月分あったことになります。 従って、それから2ヶ月経過した、1941年12月時点でも、石油は1年半は保つだけの量があったと思われます。 (「開戦の原因 証言記録太平洋戦争」サンケイ新聞出版局 P132) |