当時の満州は、中国人の土地ではなかったのでしょうか? まず、以下の電報を見ていてください。 「三、現今滿洲住民の殆ど全部が漢民族なることに顧み、宣統帝の擁立は滿洲自身に於ても不評判なるべく(後略)」 (「日本外交年表竝主要文書」 外務省編 原書房 P187) これは、1931年11月1日、当時の外務大臣幣原喜重郎が、天津総領事桑島主計に宛てた訓電の一部です。 ここでは、はっきりと満州地方の住民は殆ど漢民族、つまり「中国人」であると言い切っています。 もう一つ、見てください。 「満蒙は漢民族の領土に非ずして寧ろ其関係我国と密接なるものあり 民族自決を口にするものは満蒙は滿洲及蒙古人のものにして滿洲蒙古人は漢民族よりも寧ろ大和民族に近きことをみとめさるへからず 現在の住民は漢人種を最大とするも其経済的関係亦支那本部に比し遥に密接なり」 石原莞爾「現在及将来に於ける日本の国防」 (「太平洋戦争への道」第七巻 資料編 P74) 「満州を日本が支配するのは正当だ」と言っているわけですが、それでも、人口的には、漢民族、すなわち「中国人」が最も多いということを認めています。 最後に、もう一つ見てください。 「漢民族は優秀なる民族なりと雖自ら近代国家を造る能はざる欠陥あるものと断ぜざるを得ず 満蒙が日本の為欠くへからざると共に三千万大衆は日本の助力無くしては遂に平和なる生活を営む能わず」 石原莞爾「満蒙に関する私見」 (「太平洋戦争への道」第七巻 資料編 P185) 露骨な中国人蔑視ですが、同時にこれは、満蒙の住民の大半が漢民族、つまり「中国人」であることを前提としています。 時期的には、若干後になりますが、康徳四年(1937年)12月末の満洲の人口構成では、全人口3,639万人の内、漢民族は、実に82%を占める2,970万人に達します。 これに対して、満洲族は、435万人で、12%を占めるに過ぎません。 つまり、この当時既に、満州族は満州において少数派になっており、満洲は事実上、漢民族の支配地域になっていたのです。 更に、張学良が、1928年日本の反対を押し切って、中国の国民政府に合流する「易幟」を実施してからは、名目上も漢民族の支配地域となってしまいました。 つまり、満州は、名目上も、実質上も漢民族の支配地域だったのです。 |