この記述は、間違いです。 高射砲を空襲の状況に応じて移動させるということはあります。しかし、それは、もっと長い期間の空襲の状況を見て行います。 移動が容易な野戦高射砲(取外し可能な移動用の台車付きの高射砲)でも、陣地の撤収、移動、陣地の再構築にはある程度の時間が掛りますから、激しい空襲があったからといって、その翌日にそこへ高射砲を移動させるような「泥縄式」の対応は行いません。 そもそも、激しい空襲を受けて丸焼けになった場所を守っても意味がありません。 しかも、当時の実際の状況は 「 七月下旬に至り、廣島市に対する敵機の偵察が活発化したので、同地空襲の近いことが感ぜられた。 第十五方面軍は高射第三師団に対し、山陰諸港にあった高射部隊の主力を含む高射砲六コ中隊、照空【サーチライトを装備した部隊のことです、夜間空襲の場合、サーチライトを使って目標を探します。ですから、雲の上から爆撃されると手も足も出ないわけです】二コ中隊を廣島に派遣し、独立高射砲第二十二大隊長の指揮下に入れることを命じた。 右の方面軍命令に基づき、高射第三師団は先に仙崎、萩に派遣していた高射砲三コ中隊のうち二コ中隊、加古川、下津にあった高射砲中隊、大阪南地区の高射砲、照空各一コ中隊、大阪北地区の照空一コ中隊を廣島に派遣し、独立高射砲第二十二大隊長加藤恒太少佐の指揮下に入れ、また岩國の高射砲中隊を同大隊長の直接指揮下に復帰させるよう処置した。これら諾隊は八月の初めごろから逐次廣島に到着したが、全部の到着を待たず、後述のように八月六日早朝廣島市は原子爆弾の攻撃を受けその大半を焼失した。」 (「戦史叢書 本土防空戦」 P619 【】内筆者注記) というわけで、実際には、阪神地区にあった高射砲が広島へ集められている最中だったわけです。戦争論の記述は、事実と180度反対です。 それから、「この空襲」は「8月6日」になっていますが、公式記録では、日米ともに「西宮空襲」を「八月五日」にしています。(空襲が午前0時を越えて行われているので、「8月6日」でも間違いではありませんが。) 日本の記録によれば、「八月五日」の空襲は 2130〜0445 B-29(415) 130 前橋、銚子、館山焼夷攻撃 130 西宮焼夷攻撃 50 今治焼夷攻撃 70 宇部焼夷攻撃 30 日本海沿岸及び瀬戸内海機雷投下 (内訳の合計が総数と一致しませんが、元資料(「戦史叢書 本土防空戦 付表第二 本土空襲状況並びに邀撃、戦果及び損害一覧表(昭和二十年二月十六日〜八月十五日)」)がそうなっています。) 空襲を受けたのは阪神地区だけではないわけですから、「高射砲をすべて阪神地区に引き寄せ」るなどということはありえません。 |