沖縄戦において、日本軍は、約1,900機(海軍:1,000機、陸軍:900機)の航空機と約3000人(海軍:2,000人、陸軍:1,000人)にのぼる搭乗員を特攻に投入しました。
日本海軍航空史編纂委員会編「日本海軍航空史1 用兵篇」時事通信社 P513、558、生田惇「陸軍特別攻撃隊史」ビジネス社 P218、291、296)

 これほどの犠牲を払って得た戦果は、撃沈が26隻(総撃沈数36隻の72%)、しかも、撃沈した艦船は駆逐艦以下の小型艦艇に限られ、巡洋艦以上の大型艦は撃沈されていません。
 その他に、164隻(損傷総数368隻の45%)の艦船に損傷を与えましたが、人員の損害は、特攻以外の損害を含めても、死者約4,907人、負傷4,824人に留まりました。
合衆国陸軍省編「沖縄 日米最後の死闘」光人社NF文庫 P516〜518)

 特攻は確かに戦果は挙げています。特攻開始以前、既に日本の航空戦力が弱体化しており、通常の攻撃では、アメリカ海軍に対して、全く損害を与えられなかったことを考えれば、日本軍が特攻戦術にのめり込んだのは判らないでもありません。
 しかし、純粋に戦術的に考えると、特攻は、損害と戦果が引き合わないと言わざるを得ません。一回の出撃で、飛行機一機とパイロット一人は必ず失われるわけですが、それに引き替え特攻の戦果や成功率は前述のとおりです。
 特攻の戦術的な評価は、アメリカ戦略爆撃調査団の
 「自殺攻撃は効果があったが、たかくついた」
 とする結論がもっとも妥当なものでしょう。

  しかし、それにしても「沖縄戦では沈没した艦船76隻」というのは、一体何に基づく数値なのでしょうか?
 沖縄戦における撃沈総数は、前述の通り36隻でしかありません。小林よしのりの主張は、実際の2倍以上の数値です。大本営発表でもそのまま使っているのでしょうか?

 次に、戦闘疲労症(小林よしのりが「戦場神経疲労症」といっているものと同じものです。ここでは、「新・戦争のテクノロジー」の訳語に従い、「戦闘疲労症」と標記します。)について簡単に説明します。
 これはストレス性の神経症の一種で、激戦に遭遇した軍隊では必ず一定の割合で発生する現象です。
 第二次世界大戦当時のアメリカ軍はこの戦闘疲労症の発生が多く、その発生頻度は、負傷者100人つき150人で、ドイツ軍の11.5倍に達しました。
 (ジェイムズ・F・ダニガン「新・戦争のテクノロジー」河出書房新社 P484)

 程度の差こそあれ、戦闘疲労症は戦場ではよく生じる症状なのです、戦闘疲労症が発生したからといって、軍隊が戦闘不能になるということはありません。
 特攻の結果、戦闘疲労症に陥った兵士がいるということをもって、アメリカ軍が戦闘不能に陥ったかのように騒ぎ立てるということは、結局のところ、軍事常識の欠如を証明する以外のなにものでもありません。(大体、特攻機の目標は艦船ですから、特攻がアメリカ陸軍に影響する筈もありません。)

 また、アメリカ人は、日本人が一般に考えている以上に戦意旺盛であり、特攻によって、アメリカ軍が戦闘不能状態に陥ったという事例はありません。
 特攻が言われるほどの精神的効果をあげなかった事例は、最初の特攻攻撃が行われたレイテ沖海戦において、既に存在します。
 1944年10月25日、神風特攻隊(朝日隊、山桜隊、菊水隊)の6機は夜明けと共にミンダナオのダバオを出撃、トーマス・スプレーグ少将の護衛空母群を攻撃しました。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツはその著書で、次のように書いています。
 「ちょうど栗田中央部隊の攻撃に艦上機を発進させようとしていた護衛空母めがけて、零戦隊はまっしぐらに急降下した。ほとんど真逆様に突入したものもあった。」「「スワニイ」および「サンティー」は両艦とも特攻機に命中され、爆発した爆弾は飛行甲板と格納甲板を貫いて破裂した。しかもこの大混乱の最中に、「サンティー」は探知されずに近接した日本潜水艦に雷撃される始末であった。」
 しかし、特攻隊の攻撃を受けたにも関わらず、護衛空母群は
「この攻撃にもひるまず、損傷した二隻の空母は依然として陣列の定位置を去らず、迅速な応急修理を施して数時間以内には航空作戦を再び開始した。」
のでした。
(C・W・ニミッツ、E・B・ポッター「ニミッツの太平洋海戦史」恒文社 P443)

 小林よしのりの「米軍将兵たちは戦場神経疲労症(シェル・ショック)に患って、一時は戦争遂行も危ぶまれるほどだった」という主張がいかに事実と異なるかがお分かりになるかと思います。
 誤解のないようにお断りしていきますが、特攻が、アメリカ軍に一定の精神的衝撃を与えたことは事実です。ですが、それは小林よしのりがいうほど大きくはありませんでした。

 沖縄戦も初期のころは、アメリカ軍の防備体制が不十分だった上、特攻機の数も多かったので、それなりの戦果をあげています。
 しかし、後期になると、アメリカ軍の防備体制は向上するのに、日本の特攻機の性能と数は低下し、戦果は挙がりにくくなっていきました。
 沖縄戦の末期には、白菊や二式高練のような練習機までが特攻に投入されていき、挙げ句の果てには「赤トンボ」の愛称で親しまれていた複葉の中練までを特攻に投入するほど、日本の航空戦力は枯渇しました。

 アメリカの圧倒的な戦力の前には、捨て身の攻撃も、遂に効果を挙げることは出来ませんでした。


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