特攻を否定するのは左翼筋だけではありません。実際に特攻で戦死した者にも、特攻を否定している者がいます。 小林よしのりも取り上げている神雷部隊の初代飛行隊長であった野中五郎少佐は、出撃前、部下の林大尉に 「俺はもともと特攻など好きじゃない。俺でなければ隊長がつとまらないというから、迷惑千万だったがだったが、受けたまでだ。日本一の俺が最精鋭を連れていっても、桜花攻撃は成功しないよ。必ず全滅する。全滅したら林よ、糞の役にも立たない特攻などぶっつぶしてくれ」と言い残し出撃します。 (「桜花攻撃隊全滅す」「完本大平洋戦争 四」文藝春秋 P108) もっとむごい否定としては、航空特攻作戦発動時、軍令部作戦課の参謀であった土井一夫参謀の談話があります。 「軍令部第一部長の黒島亀人さんは、これ〔特攻〕で戦勢を逸回するのだと言った。一部の人が『これからは特攻だッ』と、自分は特攻に行く気もないのが、特攻特攻と叫んでいました。私は、特攻というのは、瀕死の病人を救うため一時的に毒薬・劇薬を使うこともあると聞いているが、それと同じで、常道にしたら大変だぞと言ったことがあります。軍令部全体では、特攻戦法で戦勢を逸回すると言うことは、正直考えていなかったですね」(「歴史と人物」昭和五十六年五月号 中央公論社 P156〜157) ここからは左翼筋でないものも、航空特攻に否定的だというのがはっきりとわかります。小林よしのりの言い分はデタラメだというのがよくわかります。 さて、話を少し変えまして、では、何のために特攻をさせたのか、という点に関して考察してみます。この疑問については以下のような証言があります。 これは、福湯氏という新聞記者が、海軍航空特攻の生みの親とされる大西瀧治郎海軍中将にインタビューを行ったものです。(『』は大西中将の証言です。) 『わしはな、神風攻撃で、戦局を覆せるとは思っていなかった。いまも、そう思っている。それにもかかわらず、わしは、次から次へと、若い人たちを死にかり立てている』特攻で戦局を挽回できると考えていなかったのは、土井参謀とも共通する点です。だったらなぜ特攻を行ったのか、もっと深く突っ込んだ大西中将の答えは次のとおりです。 『わしはな、この日本が破れようとしている時に、若い人たちが、喜こんで、敵に体当りをして死んで行ったという歴史をつくりたかった。つくっておきたかったと言った方が正確だな(中略)そういう歴史がないと……後世の日本人はどんなに淋しいことだろう』(福湯豊「真実はついに活字にならなかった」「帝国軍隊従軍記 現代史の証言4」汐文社 P152) もし、本当に『この日本が破れようとしている時に、若い人たちが、喜こんで、敵に体当りをして死んで行ったという歴史』を作るために、特攻を始めたのだとしたら、その発想はあまりにもおぞましいものだといわざるをえません。 もっとも、その後の大西中将の言動と照らし合わせると、上記証言の信憑性には疑問も生じてくるのですが、少なくとも特攻を始めた当初の大西中将の目的は、「少なくとも一週間ぐらい、敵の空母の甲板を使えないようにする」ことでしたので、大西中将自身も、特攻には余り大きな期待はしていなかったことは間違いありません。 蛇足になりますが、後の話に関連してきますので海軍特攻について少々。 海軍航空特攻が戦法として正式に採用されたのは、一九四四年十月の捷一号作戦においてです。それまでは体当たり攻撃とはいっても、戦闘で負傷または搭乗機自体が傷を負い、とても基地あるいは母艦まで戻れそうもないと判断したパイロットが、個々に行った事例があるくらいです。 ところが、捷一号作戦においては特攻が正式採用されました。この作戦の目的は、米軍のフィリピン上陸部隊をたたくことで、これを担当したのが、日本海軍の主力艦隊である栗田艦隊でした。通常、こういった場合には敵の空襲をさけるため、上空護衛の飛行機をつけるのですが、栗田艦隊には空母がありません。 フィリピンの日本海軍航空部隊の司令官だった大西中将としては、指揮下の飛行機を栗田艦隊の上空に派遣する必要がありましたが、機数はわずかに約三十機ほど、それを操縦するパイロットも技量の整わない者が多かったため、現状では、派遣したところでアメリカの戦闘機に撃ち落とされるだけというのは目に見えており、まともに栗田艦隊の上空を護衛することなど期待できませんでした。 そこで大西中将が考えたのは、この作戦中、栗田艦隊が危険海域に入りアメリカ上陸部隊をたたいているその間の期間だけ、アメリカ空母の甲板を使用不能にして飛行機を使えないようにする、という案でした。 ここでまた問題が起こります。通常、艦艇を攻撃するには雷爆撃機による爆撃ないしは雷撃という方法がとられますが、大西中将指揮下の飛行機は殆どが戦闘機であり、前述のとおりパイロットも錬度の低い者ばかりでした。従って雷爆撃を行うには不可能に近かったのです。そこで考え出されたのが、文字通り、飛行機ごと敵の艦艇に体当たりさせてしまえという特攻戦法でした。 これが大西中将の目的のバックグラウンドであり、かれが海軍航空特攻生みの親といわれるゆえんです。 ちなみに、この作戦に伴って生じた海戦を日本側正式名称では比島沖海戦といいますが、現在では、レイテ沖海戦という通称のほうがよく知られています。 【資料出典:中島正・猪口力平「神風特別攻撃隊の記録」 雪華社 P41】 |