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小林よしのりの、この文章は自己矛盾を含む実に奇妙な文章になっています。
この文章がいかに奇妙であるか、順をおって説明していきましょう。
まず、「おまえが、その当時の人間だったら、何かできたのか?」と問いかけておきながら、すぐその次で「「出せた」といっても全く無意味だ」とあらかじめ、読者の答えを否定してしまいます。
これでは、最初に「おまえが、その当時の人間だったら、何かできたのか?」と問いかけた意味が全くありません。
また、その後に続く「人は時代の条件と気分の中にしか存在しない。」という文句も、別に改めて言うまでもない至極「当たり前」の話であり、ここでことさら主張しなければならないような話ではありません。
ちょっと考えてみればすぐに分かることですが、そもそも「時代の条件と気分の中に」存在しない人など、この世にいるわけがないのです。
しかし、この文章の中でもっとも奇妙なものは、その後に続く「時代の必然性」という理屈です。
どうやら、小林よしのりは、「過去の人間は、「時代の必然性」によって、縛られているのだから、そのことを無視して批判しても意味がない」とでも言いたいようです。
この理屈は一見すると、もっともらしいのですが、実際に、実例を当てはめて考えてみると、非常に奇妙な理屈であることが明らかになります。
具体例として、「薬害エイズ事件」を考えてみましょう。
この小林よしのりの「時代の必然性」という理屈が正しければ、加熱血液製剤の承認を遅らし、非加熱血液製剤の販売を認めた当時の厚生省や、エイズサーベイランス委員会のメンバーも、当然「時代の必然性」に縛られていた訳でです。
そういった「時代の必然性」を無視して、彼らの行動を批判した、小林よしのりをはじめとするボランティアの面々は、「時代の必然性を無視し」た「無責任で信用ならない連中」だということになってしまいます。
つまり、この「時代の必然性」という理屈が正しければ、小林よしのり自ら、自分は「無責任で信用ならない」人間であるということを、主張していることになってしまいます。
そもそも、人間が、自らが生きている時代と環境の制約を受けるのは当たり前の話です。
いつの時代でも、人間は、生きているそれぞれの時代と環境の制約を受けます。それは当然の事であり、避けることはできません。
それは、逆を言えば、時代と環境の制約を受けたこと自体は、失敗の言い訳にはならないことを意味します。時代と環境の制約を受けながら成功したケースは幾らでもあるからです。
時代と環境の制約を理由に、過去の失敗に対する省察を否定する小林よしのりは、たとえるなら、自分の不勉強を棚にあげ、自分の環境が悪かったから受験に失敗したのだと責任を転嫁する受験生と似たようなものでしょう。
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