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小林よしのりは「南京の安全区に2万人の国民党軍のゲリラが入り込み日本兵に化けて、略奪・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍の仕業に見せかけていた。」
と、書いていますが、この主張にも証拠がありません。
実際には、日本軍は、安全区で徹底的に敗残兵狩りを行っているからです。
例えば、歩兵第7連隊の1等兵だった水谷荘の日記「戦塵」の12月16日(南京陥落の3日後)に、難民区における敗残兵の掃討の話がでてきます。
第7連隊は、難民区の街路交差点に歩哨を配置して交通を遮断した後、中隊単位で地域を分担して掃討を行いました。
掃討のやり方は大ざっぱで「目につく殆どの若者は狩り出」した結果、「各中隊とも何百名も狩り出し」ました。
水谷の所属する「第一中隊は目立って少ない方」でしたが「それでも百数十名を引立て」ています。
引立てられた者の「家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る」なか「市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。」
しかし、これが敗残兵であるという確証の下に処刑されたわけではないことは「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のない」「多少の犠牲者は止むを得ない。」という日記の記述からも明らかです
付記 ちなみにこのようなやり方は、国際法上問題があることは、海軍大学校国際法教官を勤めた戦前の国際法学者、信夫淳平がその著書「上海戦と国際法」(丸善 1932年)において指摘しています。
付記2 戦時重罪犯といえども、審問(裁判所が書類または口頭で当事者や利害関係のある人などに陳述の機会を与えて聞くこと)を行わずに処罰することは国際法に違反することが、「戦時国際法規綱要」に明記されています。
日本軍は、敗残兵狩りをしている兵士でさえ、「抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである。」と書くほど徹底的に敗残兵狩りをしています。
にも関わらず、小林よしのりは、日本軍が、二万人もの敗残兵を見逃していたとしているのです。いくらなんでも、そんなことはありえないでしょう。
それに、日本兵が、略奪・強姦・放火をしていたということは、偕行社の南京戦史のような、日本側の記録にも出てきます。
そういった記録はみんな嘘だとでもいうのでしょうか。
それでは、ここからひとつひとつ事実をみていきたいと思います。
@略奪の話
- 家具ノ間題モ何ダカケチケチシタコトヲ愚須愚須言イ居リタレバ、国ヲ取リ人命ヲ取ルノニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン、之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜ブモノアラント突パネテ置キタリ
中島今朝吾 1月23日の日記
昭和13年1月の中国は南京、ここを占領した後、暫くの間治安維持を担当した日本陸軍の部隊は、中支那方面軍隷下の第16師団でした。これはその師団長であった中島今朝吾中将の日記です。この日記は、南京事件当時の日本軍側の当事者が記録したものとして、南京事件を考察するのには重要な資料のひとつとなっています。
中島中将は、砲兵出身で何度も砲兵学校の教官をやった上、フランス留学までしているくらいのエリート軍人です。ところが、こういうエリート軍人でさえ、家具を略奪して持ち帰るくらいことのどこが悪いのだ?、と公然と主張しているのです。しかも、略奪を上官である「大将」、つまり中支那方面軍司令官松井石根からとがめられると、反対に逆ギレして突っぱねたりするわけです。
小林よしのりがどう言おうとも、当時の南京を占領した日本軍は、悲しいことに、国際法のみならず、陸軍刑法においても禁じられている、略奪を平気でやってしまう「無法」集団だったのです。
師団のトップが公然と、略奪してどこが悪いといってしまう師団に警察の役割を任せているのですから、言い方は悪いのですが泥棒に戸締まりをさせているのに等しいでしょう。
もっとも、略奪を行ったのは、第16師団長だけではなかったのは、
- 国民政府ノ中ノかっぱらいノ主人ハ〔中支那〕方面軍ノ幕僚ナリト突込ミタルニ、是ハサスガニしらばくれテ居リタリ
という、中島中将の同日の日記の記述からも明らかです。
無論、略奪をしたのは、上層部だけではありません。
歩兵第7聨隊第2中隊の井上又一上等兵の12月19日の日記には、
- 醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き箱から蓋を取った釜の中を見、引出の中を開き色々と中をさがすのだ。難民の見ている前でやるのだから彼等とて恐ろしい日本兵の事何もする事も出来ずするままである。
(中略)
手榴弾を取って来て池の中に投げ又魚を取る。全く悪い事の出来得るかぎり働くのである。
とあります。
また、歩兵第103旅団長だった山田栴二少将は、12月24日の日記には、
- 一、予後備兵ノダラシナサ
1、敬礼セズ
2、服 装 指輪、首巻、脚絆ニ異様ノモノヲ巻ク
3、武器被服ノ手入レ実施セズ赤錆、泥マミレ
4、行 軍 勝手ニ離レ民家ニ入ル、背嚢ヲ支那人ニ持タス、牛ヲ曳ク、
車ヲ出ス、坐リ寝ル(叉銃ナドスル者ナシ)、銃ハ天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣ヲ勝手二撃ツ、掠奪
と書いてあります。(放火、強姦、略奪といった犯罪行為を、服装の乱れ等と同じレベルの「ダラシナサ」で片づけてしまう点に、当時の日本軍がこういった犯罪行為に「慣れ」てしまっている様子が感じられます。)
山田旅団長は、続けて
- ○ 兵ノ機敏ナル、皆泥棒ノ寄集リトモ評スベキカ
旅団司令部ニテモボヤボヤシ居レバ何ンデモ無クナル、持ツテ行カル、馬マデ奪ワレタリ
と書いています。
つまり、兵隊は、自軍の旅団司令部でさえ、略奪の対象としていたわけです。
日本軍の司令官自身が兵士を「泥棒ノ寄集リ」と表する程、日本軍の軍紀がデタラメになっていたことが伺い知ることができます。
小林よしのりは、これも、中国兵が日本兵になりすまして、略奪したとでも言うのでしょうか?
A強姦の話。
歩兵第23聨隊第2大隊砲小隊長だった折田護少尉の12月16日の日記を見てみたいと思います。
- 夕刻入城祝を小隊にて催せしが、一八・○○大隊本部に各中小隊長集合を命ぜらる。席上大隊長より次の注意あり。
「昨日UMGの兵二名市内にて支那婦人二名を強姦せるを柚木円優中尉発見しR本部にて問題となり目下取調べ中の由、厳にかかる行為のなきよう注意せられたし」と。
UMG=第二機関銃小隊
R=連隊
付記
強姦について、南京陥落後、杭州攻略に向かった第10軍が、12月20日に出した命令「丁集参一第一四五号」の中に南京において「婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル忌ムヘキ亊態ヲ發生セル」と書かれています。
この命令が出たのが、12月20日ですから、南京占領後、1週間も立たない内に、公式に判明しただけでも、100件以上の強姦事件が発生した訳です。
まさに「忌ムヘキ亊態」と言わざるを得ません。
しかし、第10軍は、杭州においては、そのような事態が発生しないように、迅速に対策を講じています。
第10軍は隷下の第18、第101師団から、それぞれ歩兵1個中隊を抽出して補助憲兵とし、これを第10軍の憲兵隊長の指揮下に加えることで警察機能を強化し、秩序の維持を図っています。
こういった第10軍の迅速な対応に比べて、南京に駐留していた上海派遣軍やその上部組織の中支那方面軍の対応はお粗末きわまりないものでした。
例えば、中支那方面軍司令官松井石根大将の12月20日の陣中日記に
- 一時我将兵ニヨリ少数ノ奪掠行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク多少ハ已ムナキ実情ナリ
とあるように、司令官自身が、少数(1週間足らずの間に、強姦だけでも100件以上の事件が発生しているにも関わらず、それを「少数」としてしまうその感覚は理解を絶しますが)の掠奪や強姦等はやむを得ないと認容し、何らの対策も講じませんでした。
中支那方面軍が、具体的な対策を講じるのは、1月6日です。
12月30日に陸軍大臣、参謀総長連名で注意電報が来てから1週間の日数が経過しています。
しかし、この後も、信じられないことに、指揮官を先頭に部隊ぐるみで強姦をやる者たちが出てきます。
上海派遣軍参謀長飯沼守少将の日記を見てみます。
- 憲兵ノ報告ニ依レハ(中略)避難民区ニ将校ノ率ユル部隊侵入強姦セリト言フ。(真偽確カナラサルモ)
12月19日
- 本夕本郷少佐ノ報告。(中略)中隊長ヲ訊問シタルニ中隊長ハ其権限ヲ以テ交ル交ル女ヲ連レ来リ金ヲ与ヘテ兵ニモ姦淫セシメ居レリトノコト。依テ憲兵隊長小山中佐及33〔i〕第二大隊〔長〕ヲ呼ヒ明朝ノ出発ヲ延期セシメ大隊長ノ取調ニ引キ続キ憲兵ニテ調フルコトトセリ。
1月26日
- 注・iは歩兵連隊のこと。
この事件の取調の様子を、上海派遣軍参謀副長だった上村利道大佐も日記に書いています。
- 天野中尉ノ取調ニ就テ憲兵報告……昨夜ノ勢当ルヘカラス、大隊長不甲斐ナクモ統御出来ス。残置命令ヲ当番兵ヲシテ伝達セシム。
1月27日
まさにこれは、上官が部下を統制出来なくなっていることを示しており、軍隊としては末期的な症状です。
当時の日本軍に犯罪行為が多発した理由はこれでしょう。
この後も、強姦事件が続いたことが、飯沼少将の日記から伺えます。
- 米領事「アリソン」ヨリ一月二十八日以後二月一日迄ノ日本兵ノ非行トシテ掠奪強姦八十九件ヲ抗議シ来レリ。甚タ誇大ナルヘキモ日本兵ノ非行ハ憲兵ノ報告ノミニテモ数件アリ実ニ慨嘆ニ堪ヘス。
2月12日
これらの記録から、日本軍の軍人たちが強姦を行っていたことは明らかです。
B放火の話
前掲の飯沼少将の12月19日付の日記には「憲兵ノ報告ニ依レハ十八日中山陵奥ノ建物ニ放火シ今尚燃ヘツヽアリ。」という記述があります。
この「中山陵」というのは、孫文の墓で、日中両軍とも戦闘中はここに戦火が及ばないように配慮していたのですが、よりもよって、そんな場所で、放火による火災が起った訳です。
日記の記述だけでは、放火したのが誰だか分かりませんが、前掲山田旅団長の「不軍紀 放火、強姦、鳥獣ヲ勝手二撃ツ、掠奪」という記述や、前掲上村参謀副長の12月15日の日記に「中山陵正ニ荒サレントスル形勢ニ在リ。無智ノ兵可」と書かれていること、また中山陵には警備兵がいたこと等から考えると、日本兵による放火の可能性が相当高いと言わざるを得ません。
同じ12月19日、歩兵第45聨隊第7中隊小隊長だった前田吉彦も
- 帰途ロータリーを南下して秦准へかかる頃不図遣畔の三階建の洋館から突如黒煙が湧き上りその下にチロチロと火焔が出はじめたのに気付く、今朝来るときは火の気など一ツもなかったのだが此は掠奪組の放火と首肯れた。
皇軍意識なんてものは一かけらもない彼等の行動だ。日本兵一、○○○名の中に一人の不心得者の仕業があることによって皇軍の面目は只今泥濘に委するのか。何とも云えない悲痛の裡に午後五時頃帰りついた。
と書いています。
ただし、歩兵36聨隊乙副官だった菅原茂俊の12月15日の日記の
という記述や、歩兵第六五聨隊第七中隊の大寺隆上等兵の12月16日の日記の
- MG(機関銃)の第二小隊の二分隊では夜半火を出し、日本刀を焼いた者、雑嚢、水トウ、飯台皿、鉄兜等を焼いた者があった。
という記述や、あるいは歩兵第七聨隊長だった伊佐一男大佐の12月26日の日記の
- 但沿道ノ部落ハ16D部隊焼却シアル為宿営ニ困難ス。 午後十一時第八中隊火災ヲ起ス。
という記述をみると、火災の全てが放火ではなかったようですが、日本軍は、随分火災をおこしています。
こういった記録から、日本軍が放火を行っていたというのも明らかでしょう。
さて、このような日本軍の軍規の乱れは、様々なルートから日本へも伝わっていくことになりました。
例えば、元陸軍教育総監で皇道派の中心人物であった真崎甚三郎は、一月二十八日の日記に「十一時江藤(源九郎予備役11期少将)来訪、北支及上海方面ノ視察談ヲ聞ク(中略)之ニヨレバ一言ニシテ云ハバ軍紀風紀頽廃シ之ヲ建テ直サザレバ真面目ノ戦闘ニ耐ヘズト云フコトニ帰着セリ。強盗、強姦、掠奪聞クニ忍ビザルモノアリタリ。」と書いています。
また、松井大将に代わって、中支那方面軍司令官になる畑俊六は、一月二十九日の日記に「支那派遣軍も作戦一段落と共に軍紀風紀漸く頽廃、略奪、強姦類の誠に忌まわしき行為もすくなからざる」と書いています。
日本国内でも、南京における日本軍の軍規の退廃が漏れ伝わり、問題視されていたことが分ります。
付記
南京における日本軍の不法行為が外国にまで伝わっていたことは、例えば、駐日アメリカ大使グルーの一九三八年二月十日の日記にも、
- パネイ事件の反射熟がさめはじめるや否や、南京に侵入した日本軍の言語に絶した残忍と、彼らの放恣な米國諸權利の侵害が傳わつて來た。後者は米國の家庭の掠奪と米國國旗の冐涜を含み、國旗は諸所で引別下ろされ、焼かれ、あるいは外の方法で廃棄された。中国人は大體無差別に殺され、多数の中国婦人が陵辱された。
と書かれていることから明らかです。
(「滞日十年」 ジョセフ・C・グルー 毎日新聞社 P321)
長々と書きましたが、これが南京を占領した日本軍の真実の姿です。小林よしのりがいうような、中国人による見せかけ、という記述は見つけることができません。
以上の資料は、全て「南京戦史資料集」「南京戦史資料集U」(偕行社)に出ています。
注:「付記」は「太平洋戦争の基礎知識4」には含まれていません。
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