まず、「バターン死の行進」が一体どういうもので、どのような事象のことなのか、ということを、簡単にかきたいと思います。
昭和十六年十二月、日本軍のフィリピン攻略戦が開始されます。そのなかで、ルソン島のバターン半島に陣をかまえた米比軍と日本陸軍の第十四軍(司令官・本間雅晴中将)の間で戦闘が行われました。この戦闘は一種の籠城戦という性格のものであり、勝負がつくまで四ヶ月を有するものになりました(4月9日、米比軍降伏)。
従って、決着がついたときには、陣を構えていた米比軍側には、病気が蔓延し栄養失調の兵隊も多数いる状況でした。日本軍は、このような状態の捕虜を移送しなければならなかったのですが、移送のための装備(トラックなど)を殆どといっていいほど持っておらず、結果的には病気や栄養失調の捕虜を自力で歩かせる羽目になりました。
このため、途中で倒れて死ぬ人間が続出し、これがいわゆる「バターン死の行進」というように呼ばれるようになりました。
話を少し変えまして、バターンの状況が実際はどうであったかを見てみたいと思います。
以下は、防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 比島攻略作戦」(朝雲新聞社)の引用です。
- 「降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリアの流行とのため極度に衰弱していたが、コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、および米比軍の砲爆撃によって傷つけないためにも、これらの捕虜や住民を原位置に留めておくことはできなかった。
しかも米比軍の降伏が以外に早かったため、これら捕虜に対する食料、収容施設、輸送などに関し準備を行なう余裕もなかった。当時、軍自体が食料および輸送力の不足に苦慮している状態であった。したがってこれら捕虜もいきおい比較的食糧などを補給しやすい地域に、徒歩で移動させなければならない事情にあった。
(中略)
「死の行進」に関し和知参謀長は、要旨次のように述べている。
元来バタアン半島はマラリヤのはびこる地帯である。それだけに敵味方ともマラリヤにかかり、その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。
バタアンの比島軍の捕虜は五万であったが、その他一般市民で軍とともにバタアンへ逃げ込んだのが約二〜三万は数えられ、合計八万に近い捕虜があった。一月から四月まで、かれこれ三ヶ月半も、バタアンの山中にひそんでいたためほとんどがマラリアその他の患者になっていた。その彼らを後方にさげねばならなかった。なぜなら軍にはまだコレヒドール攻略が残っていたからである。
捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。全行程約六十数キロあまり、それを四〜五日がかりで歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れきっていたからである。南国とはいえ夜になると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食べた。通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。できればトラックで輸送すべきであったろう。しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態だったのである。
(中略)
むろん道中でバタバタと彼らは倒れた。それはしかしマラリア患者が大部分だった。さらにもう一つ付け加えれば、彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである。」
P432
実態は以上のようです。マラリアにかかった捕虜を、トラックにも乗せないで五日も歩かせれば倒れて死ぬ者が出るのは当然でありますが、この状況を、装備の整っている米軍側からみるとすれば、捕虜虐待というようにうつってしまうでしょう。日本軍としては捕虜を虐待する意図はなかったのでしょうが、結果として虐待ということになってしまいました。
ちなみに、和知参謀長は捕虜約八万、と証言しておりますが、原書房「日本の戦争 図解とデータ」には捕虜八万のほかに避難民が約二万六千人とあります。数字的にはこちらが正確かと思われます。
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