実際の夜襲実施前の威海衛の状況を、参謀本部編纂「日本の戦史 日清戦争」(徳間文庫)から抜き出してみましょう。
- ■北洋水師の最後
- 日本の山東作戦軍は二月二日、威海衛軍港の陸岸を全部占領したが、清国艦隊はなお港内にいて、日島・劉公島の諸砲台とともに砲撃をつづけ、むやみに海岸に出ることができなかった。しかも日本側には有力な砲がなく、南岸砲台の鹵獲砲も、これを制するには足りなかった。
日付にお気が付きでしょうか、小室氏のいう「スーパー特攻隊」が夜襲を掛けたという2月2日には、日本陸軍は威海衛軍港を占領していたのです。
しかし、強力な大砲がなかったため、せっかく威海衛軍港を陥落させたのに、港内に留まっている北洋水師を攻撃することが出来ないという、何のために軍港を占領したのか分からないような間抜けな状況に陥りました。(日露戦争でいうなら、苦労して、旅順要塞を陥落させたのに、28センチ榴弾砲がないため、旅順艦隊をどうすることもできないという状況です。)
- 一方、連合艦隊は一月三十一日以来の風波と降雪もやんだので、三日朝、再び威海衛軍港の東口沖に現われた。伊東司令長官は、ここではじめて、陸軍が二日、すでに北岸を占領しつつあることを知ったのだった。この夜、港口の防林破壊を命ぜられた第六号水雷艇は、竜廟嘴の海岸近くに進み、ここの防材と海岸の間に約百メートルの間隙があることを発見し、ここから防材内部に入って破壊しようと企てたが、目的を達することができず、日島砲台と哨艇の射撃を受けて引きかえした。
- 第六号水雷艇の報告で防材の状況を知った司令長官は、四日、第二・第三水雷艦隊に、この日の夜、防材の間隙から潜入して清国艦を襲撃するように命じ、愛宕・鳥海の二艦に牽制砲撃をすることを命じた。
小室氏の主張する2月2日から、2日経った、2月4日になって、ようやく、日本海軍の水雷艇による夜襲が行われるわけです。
つまり、小室氏が絶賛する「夜襲」は、既に日本軍が占領している軍港に籠もっている敵艦隊に対して実行されたのです。
港の入り口にある日島・劉公島の砲台は未占領だったとはいえ、それ以外の地域は全て味方の陣地です。中に潜んでいる北洋水師の艦艇も豊島沖・黄海といったそれまでの海戦で損傷しています。
こういった状況での夜襲と、東洋最大最強の旅順要塞に守られた、無傷の旅順艦隊に対する夜襲とではどちらが、困難でしょうか?どちらの危険がより大きいでしょうか?
その辺の判断は、皆さんにお任せします。
また、小室氏の述べる夜襲の状況も、事実とは異なります。
- 第二水雷艇隊と第三水雷艇隊の先頭の二艇は、無事に前夜発見した通路を通ることができたが、これにつづいた第十四号艇は竜廟嘴礁に坐礁し、第九号艇は他船を見失い、第十八号艇は防材に衝突して進航できなくなり、第十四号艇と第十八号艇は引きかえした。無事に潜入した第二水雷艦隊の二艇は三時五十分、楊家灘から清国艦に近づこうとして哨艇に発見され、第二十一号艇はこれを避けて前進しようとする際、誤って坐礁し、第八号艇も竜廟嘴礁に触れて推進機を破損し、進退の自由を失った。
というわけで、第二水雷艇隊のうち軍港に侵入できたのは2隻だけで、その2隻も攻撃に失敗しています。つまり、第二水雷艇隊は完全に攻撃に失敗した訳です。
では、第三水雷艇隊はどうかといえば
- その間に第三水雷艇隊は黄島砲台の方向に進み、清国艦から四百メートル以内の距離に達して発見されてしまい、猛烈な射撃を受けたが、第二十二号艇は三個、第五号艇は二個、第十号艇は一個の水雷を発射した。また第九号艇は他船とはぐれたのち、単独で防材内に潜りこみ、清国艇二隻が迫ってくるにもかかわらず猛進し、前面に二檣の巨艦を発見して、約二百メートルの距離から二個の水雷を発射した。
とりあえず攻撃には成功していますが、殆ど闇雲に水雷を発射したという状況で、翌日の朝になるまで戦果の確認も出来ませんでした。
つまり、小室氏の主張と異なり、実際の威海衛夜襲は、非常に不徹底なものでした。
このため、海軍は、翌日も第一水雷艦隊による夜襲を行っています。
(参謀本部編纂「日本の戦史 日清戦争」徳間文庫 P388〜389)
|