独立に反対であった袁金凱が、「独立宣言」を出すに至るまでの経緯は以下の通りです。

一一月五日
 奉天治安維持会は「五日付布告を以て目下の過渡期に当り一時省政府の職権を代行する旨発表し」ようとします。
 (一一月五日 在奉天林総領事から幣原外務大臣へ P三六八)

一一月六日
 関東軍司令部は、治安維持会の「布告中に張学良の旧政権と国民政府との関係を断絶する旨を追加記入するよう命令し」ます。
 (一一月六日 在奉天林総領事から幣原外務大臣へ P三七〇)

 つまり、治安維持会に対し、独立を宣言せよと迫ったのです。

 関東軍の独立宣言要求に対し、治安維持会の于沖漢は「国民政府との関係断絶声明」すなわち独立宣言は「治安維持会として最苦痛とする処」として抗議すると共に、「日本側に於ても此際無理押しに内政に干渉して滿洲を中央より独立せしむるが如きは国際連盟等に対して不利益なるやに察せられる」という至極もっともな意見を述べています。
 (一一月六日 在奉天林総領事から幣原外務大臣へ P三七一)

 しかし、関東軍は于沖漢の抗議を無視し、「六日夜軍司令部より袁金凱に圧力を加え」てきます。

一一月七日
 この圧力の結果、七日の朝、地方維持委員会は幹部会議を開き関東軍の要求通り「布告中に張学良の旧政権と国民政府との関係を断絶する旨の字句を追加する」ことと布告を翌八日に発表することを決めます。
 (一一月七日 在奉天林総領事から幣原外務大臣へ P三七二)

 治安維持会は関東軍の圧力に屈した訳です。

一一月八日
 「独立宣言」である「布告」が発表されます。しかし、これがそもそも「独立宣言」などと呼べるような代物でないことは、前述の経緯から明らかです。

 しかも、袁金凱がこのような状態に不満を持ち、アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーとの会談でその不満を漏らすと、日本側は「袁金凱は外国人に対し最近此種の不平を漏らす形跡あるを以て軍部に於ては袁に対し一層監視を厳にし悪宣伝を阻止する」という態度に出ます。不平を言う自由すら袁金凱には許されなかった訳です。これが日本の認めた「独立」の実態でした。



ブラウザーの「戻る」機能を使って戻ってください。